全国大学国語国文学会 発表資料

IT時代の国語教材

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2004年6月6日
早稲田大学 小野講堂
発表者
 仲井克己(帝京平成大学情報学部)
 東  竜雄(福岡県山川町教育委員会)
 佐藤博樹(帝京平成大学情報学部)

IT時代の国語教材【二つの七霊宮】
福岡県山門郡山川町における国語教育[郷土の伝承と信仰]

【「太陽が昇るところや沈むところを見たことがない」という子供たちが42%にのぼった】
(毎日新聞4月23日 余録)
このような時代の文学に関する教育とは?

@現況[古典の世界はおもしろい!]
 『名探偵コナン 迷宮の十字路(クロスロード)』(二〇〇三年)は、『義経記』がストーリーの鍵となっている。
 『もののけ姫』(網野義彦「自然と人間、二つの聖地が衝突する悲劇」『歴史と出会う』二〇〇〇・五 洋泉社)
 各作家による『平家物語』も好調。
A現況[古典の授業はつまらない!]
 ▼名前の変化
 「義」「徳」「忠」「礼」などが減少?
  昔、「仁義礼智忠信孝悌」(『南総里見八犬伝』)や「徳」「道」「理」などは人名に頻出した。
  それらは、人間の理想を示すために重要なことばと認識されてきた。
  今、「仁」と「義」とが合体するとヤクザ映画のキーワードになってしまう?
  教育の世界では、「道」と「徳」とを結びつけることは禁忌となっている?

 ▼「今」とは、「今」を説き示すための物語が消失している時代
  『八犬伝』は文明年間の関東の動乱を描いた物語。
  「今」を築いた起点を描く物語。
  『平家物語』や『太平記』も同様に、「今」を説くための物語として機能してきた。
  現代は古典がないがしろにされている時代ではない。
  「今」を説示するための物語が喪失した時代。

 ▼戦後における古典の授業の傾向
  平安時代の「雅」や隠遁の思想を説くことに熱心であった。
  古典本来の問題である「人間」「世の中」のあり方などについて考察することを避けてきた?
  【例『太平記』冒頭における「天の徳」】
 ・蒙窃かに古今の変化を採つて、安危の所由を察るに、覆つて外無きは、
  天の徳なり。名君これに体して国家を保つ。載せて外無きは、地の道な
  り。良臣これに則つて、社稷を守る。もしその徳欠くる則は、位有りと
  いへども持たず。〜ここを以て、前聖謹んで、法を将来に垂るることを
  得たり。後昆顧みて、誡めを既往に取らざらんや。(序文)
 ・上君の徳に違ひ、下臣の礼を失ふ。これにより、四海大いに乱れて、一
  日もいまだ安からず。狼煙天を翳し、鯨波地を動かす。今に至つて三十
  余年、一人春秋を富むことを得ず、万民手足を措くに所なし。(相模守
  高時権柄を執る事)

 『平家物語』も古典の授業では「無常」が中心。
 歴史を振り返り、人間の諸相を見つめる視座を形成する物語として(教室では)機能していない。

Bでは、『平家物語』は? その可能性は?

 ▼『平家物語』の戦後における一つの論点
   知盛「見つべきことは見つ」石母田正『平家物語』岩波新書

 ▼そもそも『平家物語』とは何か?
  現在『平家物語』と呼ばれているさまざまな諸本は、いずれも幹にあたる部分であって
  在地で語られるときには自在に変容し、結果として枝にあたる部分が
  その土地のアイデンティティと密接に結びつき創世の物語として機能していた。
  すなわち、「昔」のできごとを在地の神社仏閣・お山・お瀧場などと関連付けて語ることによって、
  「今」を説き示す機能を担っていた。

 ▼福岡県山川町の『平家物語』→現在も平家物語が生きている!
  山川町は、大宰府まで落ち延びた安徳天皇がついに越えることのできなかった
  松風の関の北側に位置する人口五七六〇人の町。
  肥後から筑後へと抜ける豊前街道の要衝。港・温泉・馬市などで繁栄。
  菊地一族とともに肥後国を制圧した阿蘇神社信仰圏の北端。
 『平家物語』『太平記』に関する史跡が多く残っている。

 [山川町平家関係の史跡]
  松風関の平家台・中原の平家塔・湯谷の平家墓・中原の七霊宮
  小萩の平家墓・平の現人神(平家落人)・谷軒(平家落人)
   →平家伝承 『高田町史』掲載(該当部分をHPにて公開)
      →仲井克己「福岡県山門郡山川町立山川中学校で『平家物語』
    を読む」(『日本文学』【読む】二〇〇二・十一)
    山川町教育委員会は、町のアイデンティティを守るために「山川町の平家物語」をテーマに
 「平家まつり」を開催(二〇〇〇年春)。
 この「祭り」は、「平家物語」に関する講演会を柱にしているところに特徴があった。			

CIT時代の国語の授業
   毎日新聞二〇〇四年五月五日朝刊「IT教育」平野秋一郎
 二〇〇一年IT基本法(高度情報通信ネットワーク社会形成基本法)
  文部科学省は小学校・中学校・高等学校でITを活用した授業ができる環境の整備を目指した。
  ・すべての普通教室に2台のコンピュータを配備。
  ・教室から高速インターネットに接続
  ・全校に構内ネットワークを整備
  ・概ねすべての公立学校教員がITを用いた指導が可能
  →写真や動画などデジタル教材を自在に利用できる構内ネットワークが整備されているのは29%。
  →教員のIT技術習得の遅れ。
    理由 学ぶための時間がない。
       予算が不足 (?個人の力では限界があることが原因)
  →実際にITを使用した授業ができるのは十%くらい?
  平野氏の提言する対策
   環境整備を進める。すべての小学校・中学校・高等学校の教員にPCを貸与し電子メールを与える。
   結果として、コンピュータ会社やソフ
   ト会社主導ではない、先生主導の「教育の情報化」が進む。

  ▼教育環境の整備 山川町の「平家祭り」〈教育とは何か?〉
  問題 デジタル教材作成の知識・技術、デジタルコンテンツ制作のための知識・技術、
     利用する教員や生徒の知識・技術、予算の獲得。
     これらの問題を解決しIT教育を実現させるためには、
     異分野の人材を統合するノウハウが必要となる。
  山川町における具体的な対応(次のア・イ・ウの組み合わせ)
   (ア)コンテンツ制作のための基盤の形成
        ・「平家祭り」の実行
    ・公民館における「ふるさとの歴史講座」
    ・町のお年寄りによる総合的な学習の時間における「ふるさとの歴史」講座(堺勝氏)
    ・各地の町史や講座資料などの蒐集
      (イ)デジタルコンテンツの制作
   (ウ)デジタルコンテンツ配信のためのNET環境の構築と運用
 ▼デジタルコンテンツの利点
   安い資金で良質な画像を多用したコンテンツ制作が可能
   教師・生徒自身による独自の改訂が可能 増補改訂も可能
   教室から世界に向けて情報発信ができる!

 ▼最大の問題(コーディネイト)
     コンピュータの知識・技術の習得よりも、人間のネットワーク構築の能 力が問われる
   → 学会の果たすべき社会的責任とは?

D福岡県山川町教育委員会を中心とした調査と報告
 ▼「平家祭り」におけるシンポジウムなどの報告
    仲井克己「筑後と肥後の七霊宮」(『帝京大学福岡短期大学紀要』一三、二〇〇一・三)
    仲井克己「肥後から筑後に至る遍路道の伝承と信仰 海の文化と山の文化の交渉」
  (『帝京大学福岡短期大学紀要』一四、二〇〇二・三)

 ▼平家落人の里「谷軒」に関する調査の報告
  加藤信一郎・牛島寿人・東竜雄・仲井克己「福岡県山門郡山川町の生活と伝承」
  (『帝京平成大学紀要』一五巻一号 二〇〇三・六)
  加藤信一郎・牛島寿人・東竜雄・築地原正英・仲井克己「福岡県山門郡山川町の生活と伝承」
  (『帝京平成大学紀要』一五巻一号二〇〇四・五)

  ▼新聞の特集記事
   前田絵「もう一つのラストサムライ山川町平家伝説」
    西日本新聞二〇〇四年二月二四日〜二八日にかけて連載。
  教育委員会を中心に調査を進めた結果を、教材としていかに活用するか?
  画像・音声などをも含む教材でなければならない。
  固定することなく常に書き加えることができるような教材が望ましい。
   →ITを活用した教育用デジタルコンテンツの制作
    NETを利用した運用

E教育と研究との架橋(以下のメンバーによる共同作業)	
 山川町教育委員会(牛島寿人・東竜雄)
 山川町郷土史研究会(加藤信一郎)
 福岡県文化財保護指導委員(築地原正英)
 高田町歴史研究会(境勝)飯江小学校で授業をする
 柳川市歴史研究会(大津治人)
 クリエーショナル・レイ 佐藤博樹	

【研究面の成果】
 大宰府まで逃れた安徳天皇が、
ついに越えることのできなかった松風の関周辺における『平家物語』受容の様相について、
民俗調査などとも関連しながら明らかになりつつある。
 
【教育面の成果】
『平家物語』は、山川町のアイデンティティに関わる重要な物語であって、町には多くの遺跡が残っている。
高田町平では、今でも安徳天皇を祀る。
これらのことを確認することにより『平家物語』は自分たちの郷土に関わる物語であることを確認。
	
★山川町の七霊宮と三加和町の七郎神
<資料>
和仁の「七郎神」(塩井谷神社)	
 大津山の関の向こう側(肥後国)
      熊本県三加和町大字西吉地字古閑塩井谷三七五
      祭神 坂梨七郎左衛門
      土御門天皇の正治二年(一二〇〇)十二月四日、坂梨家の祖、藤原朝臣坂梨弥五助義光が、
   土地鎮護と農耕開拓の守護神として、肥後一の宮阿蘇神社本宮より御分霊を戴き、この地に下り、
   吉地山森に山森阿蘇神社を創建したる時、供養者の一人として同行した坂梨七郎左衛門が、
   塩井谷に住居を定め鎮座された。
        現在は、男女和合の神として有名。  (『三加和町史』)
        →山川町七霊宮でも、男神と女神が祀られていることは同じ(ナマ
     ズも二体)
 
【戦乱の犠牲者である七人の女性、もしくは敗走する主を慕ってきた女性七人が瀧(淵)までやってくるが、
前途に絶望しそこで入水自殺を遂げる】というプロットを有する伝承は、
阿蘇信仰圏内に6ケ所を数えることができる。

【七人の中の一人が川下に流れ着き、神として祀られる】というプロットをもつ伝承は、
山川町七霊宮(下流では、高田町七霊宮になる)と三加和町七郎神とに共通する。

『和仁合戦』では田中城に籠もる和仁一族の滅亡が次のように語り継がれている。

   落城が迫り和仁親範夫人は九歳の娘や侍女ら七人、さらに老僕たち併せて十人が城から逃れ出たが
   ついに逃げ切れぬと悟った夫人は、老僕に子供を和仁川の赤池淵に突き落とすよう命じ、
   最後に自分も後を追って飛び込んだ。

   夫人の遺体は、菊池川に流れ着き、「和仁石宮」として祀られている。
   夏の夜に音楽の響きが聞こえると、人々は「和仁御前」のお帰りとと酒やご飯などの供物を淵に投じた。
   
   姫たちが身を投じた和仁川の赤池淵は、山森阿蘇神社と「七郎神」の辺りである。

  「和仁御前」という名称の付され方は、
  「静御前」「巴御前」などに通じ、瞽女(ゴゼ)との関係を暗示している。
  「和仁石宮」は、菊池川を見下ろす高台に祀られており、古くは川から直接登る石段が設けられていた。
  ここは水運で栄えた菊池川の船だまりであって、玉名に向かう船が潮を見はからったところ。
  江田船山古墳から五百b程度上流あたり。
      参考資料 「和仁城合戦」大衆芸能資料集成3巻三一書房昭和五七
                  『肥後国史』和仁殿淵・田中城跡、『三加和町史』
     →「筑後と肥後の七霊宮」(『帝京大学福岡短期大学紀要』一三	
		
★平家落人伝承
歴史的経緯
  寿永二年八月一七日(一一八三)平家、大宰府に入る。
    菊池二郎高直(隆直)は、都より平家の御供に候ひけるが、
    「大津山の関あけて参らせん」とて、肥後国にうちこえて、おのれが城にひっこもり、
    召せども召せども参らず。(『平家物語』名虎)

平家七霊を祀る宮の伝承[『高田町史』に拠る]
  ・大宰府まで落ちてきた安徳天皇が,緒方惟義に追われて北方へ逃げたとき,
   同行した多くの武将は南へ逃散した。(壇ノ浦後とも)
  ・源氏軍は,平家に味方をした清水寺(瀬高町)を焼き,さらに南進。
  ・平家軍は筑後を南に敗走するが、松風の関を菊池隆直によって塞がれ
   たため、関の北側、現在の要川公園
  (待居川や要川などが飯江川に注ぎ込むところにできた扇状地)
   で,源氏を迎え撃つ。
  ・しかし衆寡敵せず,平家軍は源氏に破れ,川面は平家の武将の血によって真っ赤に染まった。
  ・七人の女官は,もはやこれまでと七霊宮の瀧に身を沈めた。
  ・その後,平家の武将たちは,障子岳をはじめとする近隣の山の中に逃げこんだ。
  ・障子岳に逃げ込んだ平家武将たちは,その後は平(デーラ)
   に住み坂梨一族として今に至る。(サカナシだから「平」)
  ・大牟田の吉野釈迦堂に隠れ住んだ者たちもいた。
  ・七人の姫君が入水。一人は下流に流されて七霊宮として祀られる。
    ・お牧山の谷軒(タンノキ)に隠れ住む(加藤一族)
    ・要川の扇状地に立った西行は,鎮魂の歌を詠んだ。
        小萩よりゆすり出でたる要川 扇の高さ 浪や立つらん
         注 ・「小萩」「湯摺」「要川」、要川に「射的橋」がかかる。
             ・障子岳とお牧山は、要川扇状地(旧地名は「平家の本」)をはさんで西と東にある山。
       それぞれの山なみで、一番高い山。
       その山に平と谷軒とがある。
             ・平と谷軒には、入り口を地蔵が守る・信仰の道の重要な地点に位置する
        といった共通点がある。
             ・他の平家谷と同じく里の人は平家であることを知っている。		


★巡礼の道で語り継がれる七人の姫君の悲劇『赤星』
  今は誰も知らない巡礼の道(平から吉野釈迦堂へと抜ける山道)			
   瀬高町本吉清水寺―山川町虎坂―高田町地蔵渡し―高田町平―
   ―大牟田吉野釈迦堂―大牟田三池―荒尾市樺―玉名市―金峰山霊巌寺
   平家姫君を祀る七霊宮に関わる飯江川の渡河地点が、「地蔵渡し」。
    ここで語り継がれた伝承が『赤星』
    琵琶語り『赤星』では、姫に殉じて自害をしたのは六人の女官とされ(総計七名の死者)、
  以下の名前があげられる。
      勝負半寿の前は二十八、小宰相二十三、千寿の前三十、小少将の前が
      十九、小侍従の前が十八、小桜の前が十六、いづれも劣らぬ花盛り、
      夜半の嵐に誘はれて、散りていくこそはかなけれ。
    【成田守『盲僧の伝承』三弥井書房一九八五・一二】
      賀津ケの前か二十七、小桜二十五、千歳の前か二十三、小少将二十一、
   小最小十九、小少将十六、とれもおとらん花計、夜半の嵐に誘れて散
   行こそ哀なれ
    【工藤敬一・高森荘子翻刻編集 熊本市史関係資料集第四集『肥後古記
   集覧』所収「赤星崩記」】
 『赤星』は、天正九年(一五八一)から天正一二年にかけて肥後・肥前を舞台とする戦いを
  三段物の浄瑠璃に仕立てたもの。
  『赤星』は地方の盲人芸として発生した曲、創作演奏された曲と推定される。
  【井浦芳信氏の指摘 座頭歌(鮫島正純本) 近世歌謡・琵琶曲・浄瑠璃資料翻付解説
   東京大学教養学部人文科学紀要四八昭和四四年】

  「七人の姫君の悲劇」というプロットは、山川町七霊宮(筑後)と三加
   和町七郎神(肥後)とに共通する。

 『赤星』概要
   ・天正九年、肥前の大将龍造寺隆信は肥後の国赤星源次綱明に、十四歳になる松若殿を人質として要求。
   ・松若殿は、士十八人を連れて佐賀に行く。
  ・三日もたたないうちに、松若の代わりに八歳になる安千代という名の姫君を人質に要求。
   ・安千代は、士二人と女房六人を連れて佐賀に行く。
   ・赤星殿に三百余町を踏み取られ恨みを抱く隈部親興なる者が、
  「赤星は 龍造寺と敵対関係にある薩摩に味方する気だ」と讒言をする。
   ・龍造寺は怒り、松若と安千代とを生張付(磔)に処する。
    場所は、肥後と肥前筑後の境、南の関、竹の夜原。
   ・兄の松若は、一日に七度、「年幼き姫を国に返せ」と隆信に言う。
   ・兄弟は、故郷の方角である東向きに磔にしてほしいと頼むが、定めにより西向きに磔の板をたてる。
   ・兄弟は、そのとき左右の手を差し上げて「ああ、なつかしや」と父母の いる御所を七度招く。
   ・姫君は、年少なれば四日にあたる酉の上刻に竹の夜原の朝の露と消えたまふ。
   若の言葉に「如何に安千代、未た此世にあるかなきか」と問ひ玉ふに、答ふる者は更になし。
   竹の夜原に春響き磯打つ浪に事添ふて空飛ふ鳥の羽音計りい猶も哀れは増りつつ
   若君も次第々々に衰えて七日に当る午の上刻に竹の夜原の朝の露と消え玉ふ。
   ・十八人の士は、肥前の館に討ち入ろうとするが多勢に叶わぬため若の
  後を追って自害。
   ・隈部、添島、鍋島、田尻の軍勢が赤星の館に向かう。
  ・館に火をつけて、八代の慈照寺正法寺を頼んで落ちていく。
    二段目
    [薩摩の島津に援軍を頼む。肥後と薩摩は敵同士であったが島津義久の決断により
   龍造寺との戦いを決める。薩摩の道行文。]
    三段目
    [島原の決戦]
   ・河田駿河守は薩摩に伝わっている兵道に則って清水の谷に下り夜の間に
  七度の水をかぶり天に向かって祈った。
  その夜、源氏の氏神である八幡をはじめとして五社の神々から、
  「このたびの合戦は肥前が負け薩摩が勝つ」とのご託宣を得た。
   ・龍造寺隆信の首は、島津によって首実検を経て、赤星にわたった。
  赤星は、太刀の切っ先に貫いて小高い丘の上で差し上げて島津館の軍神である摩利支天を伏し拝んだ。
   ・その後、首は赤星の御前にわたった。御前は、烏丸の下駄で七度踏みつけた。
    【成田守(『盲僧の伝承』三弥井書房一九八五・一二)に、「和仁合戦」赤星」に関する
   詳細な調査報告・研究を参照。】
  本発表は、安徳天皇が越えることのできなかった筑後と肥後との境を流れるそれぞれの川で
  「七霊」が祀られていることを指摘し、さらに『赤星』も七を鍵語にしていること、
  さらに「七」は立花町白木(平家の里)の亀蛇の問題ともなっていることについて
  若干の考察を加えようとしている。
   龍造寺によって焼き討ちにあったという伝承は筑後平野から荒尾・玉名にかけて頻出。
    【江崎龍雄「龍造寺隆信の筑後侵略」(『筑後武士』一九九〇・一二】
    【杉山信寛「龍造寺隆信の肥後経路」(『歴史玉名』一六、一九九四冬】
    【杉山信寛「鷹尾城主・田尻鑑種の籠城」(同一七、一九九四冬】
   戦乱のさなか、敗軍の女性は七人死ぬ!
   阿蘇信仰圏  (参照 仲井「筑後と肥後の七霊宮」)
     菊池市「産七社大明神」源為朝母子七人
   熊本県矢部旧道沿い「京の上郎」平家の公達が矢部の内大臣に落ちてきた。
  その公達を追って一門の女官たちが追ってきた。公達の姿が見えないため、絶望して千瀧に身を投じた。
  公達は女を帰すために身を隠したのであったが、女たちが身を投じたのを見て、
  呆然として立ちつくし石と化した。(巨岩が立ち並ぶ)	



▼「七霊宮・大津山の関」において平家物語を読むということは?
 大宰府から瀬高清水寺を経て松風の関に至る豊前街道は、東と西の山並みに挟まれ
 安徳天皇がついに越えることのできなかった関所として有名。
 戦略上重要な地点であるため西南戦争などでも激戦の地となった。
  この東西の山並みの中でもっとも高い山が、障子岳とお牧山である。
  障子岳 平 巡礼の道[大牟田の釈迦堂(平家落人)から三池へ]
    お牧山(旧名 甲塚山・狭野山) 谷軒 [柳川藩主立花鑑虎公が天和
      三年一六八三に牧場を開く。元禄年間、野町に馬市。]
    東西の最高峰の中間地点が、源平の古戦場である要川公園。源平だけではなく、
  藤原藤房に関する伝承もある。
    また、街道沿いに山鹿良之師によっても演じられた『菊池くずれ』(赤星)に登場する
  三郎丸(十三歳)と八十姫(八歳)の御霊を祀る線刻の地蔵尊が立っている。
    平家塚の立っている築地原家は、お牧山を開くにあたって仙台まで出向いた者の子孫。
  坂梨家は、平に住み四月十六日に現人神の前で祭礼を行ってきた。
  坂梨家は、阿蘇一族。各地の阿蘇神社や交通の要衝に住む。
  谷軒の加藤家は、山の神様を祀る。日照りが続くと、お牧山の神霊泉に奉仕をする権利を持っていた。
    山川町で平家を読むと言うことは、町の由来や家の歴史と密接に結びつく神聖な行為であった。

  ▼研究発表に関するデータの公開    http://rizardon.ddo.jp/society

    教科書の世界 「扇の的」などの読解が中心。
      『平家物語』 安徳天皇は大宰府から北へ向かう。
             → 中央のデータを重視し、地元のータを軽んじる。
        山川町でも、「平家」と言ってもわからなくなりつつあった。
    世代としては、昭和一桁まで。その後の世代は、急速に「昔」について興味を失っていく。
      このHPでは、七霊宮関係以外のデータも収録し更新します。
   @有江本蒙古襲来絵詞画像データ
        幕末から明治初期にかけて活躍した画家の家に秘蔵されていた白描
    の未公開本
            千葉未来高校にてITを活用し研究授業を実施
            鍵語【アジア・明治における神国概念の形成・中世の武士】
      A大津山の関の向こう側における平家伝承(三加和町)
          岩村に二つの阿蘇神社  菊池隆直と平貞能家臣荒巻大膳
          荒巻大膳 寿永二年十一月
     緒方惟義が大宰府を急襲したのは寿永二年十月二十日(『玉葉』)
     二つの神社は、平山温泉へと続く道に建っている。
       その他、「腹切り坂」「平家淵」などの平家伝承がある。特筆すべきは、
    梶原景時が平家追討のため下向し、そのまま居着いて板楠家の祖となったという伝承である。
      B肥後国 山本郡大橋城の「法華経 霊験譚」
     梶原景時が、肥後守貞能の子供貞経の居城である大橋城を攻める。
          田底は土地の区画整理が進み城跡などが不明。
     昭和四二年大橋又熊氏がブラジルから郵送した手書きの地図が残る。
          六殿神社(平家を祀る)が立っていたことがわかる!
      C文章表現に関する補助テキスト
          『実践国語表現』(おうふう)の補助教材として作成。
	
[学校+教育委員会+公民館+学会]
 教育・研究の専門家集団がどのような形で社会的存在意義を証明するか?	
  データの入手・分析・評価・統合・編集・公開

 「IT」とは「公開の技術」であって、コンテンツそのものを作り出す力はない。
     いろいろな才能をコーディネイトする機関が必要?		

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