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山川町の伝承[平家落人]

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山川町の伝承と信仰

資料:徳永正治『山川町遺跡史跡めぐり』 山川町郷土史研究会  昭和60年
   高田町史 昭和33年
参考資料
(1)仲井克己「筑後と肥後の七霊宮――七人の姫君の悲劇――」
   (『帝京大学福岡短期大学紀要』13、2001・3)
(2)仲井克己「肥後から筑後に至る遍路道の伝承と信仰――海の文化と山の文化の交渉――」
   (『帝京大学福岡短期大学紀要』14、2002・3)

松風の関
 筑後と肥後との境界。
 現在、国道443号が通るが、豊前街道は真弓の里の手前で丘に登る形になっていた。
 首切り地蔵が今も残っている。
 高速道路を久留米から南進すると、山に挟まれるような地形になる。
 最初の陸橋の東側に首切り地蔵が祀られている。
「昔、松風の関を破った旅人が水場に立ち寄ったところ、そこに隠れていた役人によって斬殺された。
 土地の人々は、この旅人を供養するため、地蔵尊を立てて祀った」
「いにしえの関屋のあとは荒れ果ててあわれ名に負う松風の関」某史家
「この関は 誰が通るか 松風の音にぞきかん もののふの道」
代官屋敷
 熊野神社の南側に代官屋敷があった。
 現在は、「車田氏屋敷跡」の碑文と古井戸がミカン畑の中に残っている。

物見塚・要川・七霊瀧・平家台
 これらは、平家落人伝承の舞台である。

資料
(参考資料福岡県三池郡高田町『高田町史』昭和三三年十月)
平家の、栄華の夢は朝露の如く打消されて、戦へば敗れ、落ち行く先は九州である。
溺れんとする者は藁の一片をもつかみたいのが人情である。
九州には大宰府を初め、国々に平家の一族が政権を握つていた。
平清盛は肥前、肥後に大功田を有し、また筑後守は平貞能、肥後守は平貞家である。
然し予想は裏切られた。既に公卿文化は淡く消え失せて、
質実、剛健、尚武の武家文化時代である。
便りの綱は切れ果て太宰府にて露命をつなぐ事も出来ず、
行く先はすつかり闇雲に包まれてしまつた。
今では落武者ならぬ公達の流離サスラふ姿こそいとも哀れである。
行く先ごとに迫害を受けるのみで、
人の情に取り縋りつつ尾島(八女郡船小屋の北方)では、又も襲撃をうけた。
筑後地鑑に云う。
 「尾島町筑肥往還大路、有松原、旧日市塚、
  伝聞昔年寿永騒乱平氏一族、於長州壇浦被鏖殺、残党奔走而到此地、被斬首者不知数、
  故以其骸骨埋土穴者五六箇其側有一丘墓、号浅山小次郎塚。
  其辞世曰『武士乃命袁売也市塚立初与利加宇止思倍波』
  延宝年中近邑尾島里民闢此処、欲構市店、為往還旅行駅路、言干官郡司、為町者百余家、
  此時発古塚、出甲冑刀鏃許多」
と。
残党は夕日の西山に没するが如く、鎧は千切れ錦の衣はほころび、弦は切れ矢は尽き果てた。
かくて本郷の渡しを打破り、瀬高の庄に着いたのである。
徳大寺藤原実定の住吉館には老松が疎らで、庄池の辺りなる瀬高五山が隠見する。
吉井街道を南に急ぎ、野原の庄も間近である。当時郷土は天台宗の全盛時代である。
本吉山清水寺の法印を始め、近郊の法印等談合して、平家の残党に力添えをした。
「御身達は公達なり、鎌倉の野良武士に負けるとは何事か我等一党援助申さん」
と。
決戦地を飯江要川に選び、英気を養い、戦いの準備を取り急いだ。
先づ、物見塚の高台より北方を眺め源氏の来襲を警戒した。
戦気は熟し、数日後平家追悼軍は馬蹄の轟も凄じく土煙打立て
閧声(トキノコエ)高らかに街道筋をまつしぐらに寄せて来る。
此処を先途と一大決戦は展開された。
然し今更平家に勝算はなく、勝ちほこつた源氏の進撃はいよいよ急である。
平家方は、前に進まんか猛虎の如き仇敵あり、後に退かんか険悪なる山岳密林渓谷あり。
進退や今や全くきわまつてしまつた。或者は細谷川伝い山峡に登り滝に身を投じた。
後日里人達は、死体を懇に葬り塚を建て、後年堂宇を建立して七霊宮(シチロウサン)として祀った。
又或者は障子岳の森林中に身を隠して隠遁生活をなし、里人等と交わることもなかつた。
今日この地名を平(デーラ)と云ふ。
又或者は田鶴の川伝いに海岸に来り、海辺をたどつて今の柳川市沖端に至つて余命を漁業に求めた。
難波、浦川、加藤、是永、鳴神、若宮にて六騎の安住の地はここに定まつた。
残れる平家の落人は露命を只天運に委せて山岳伝いに、野に伏し山に伏し、
野鳥の声にも肝をつぶしつつ肥後路深く彷徨いつづけたという。

[平家追福供養之塔建立]
いとも痛ましい最後を遂げた平家一門の為め、心をくだいたのは小松内大臣重盛である。
然し内大臣はその志を達する事能はずしてこの世を去つた。
後年その遺志を継いで供養塔が建立された。現在筑後市津島の今寺にある。
光明寺境内の九重塔である。

[清水寺の焼きうち]
平家の落人に同情して戦意をそそり、尚又味方の追撃戦を誘発したのは、偏に山僧の仕業である。
其の罪浅からずとて、緒方三郎をして清水寺焼打ちを行わせた。

[堀口城の激戦]
平家に味方せし徒輩は、残党を集めて堀口城に楯籠る。
数十日の激戦中糸田貞義の奮戦は最もめぎましいものであつた。

[要川]
南朝の忠臣真弓広有公に由緒深い、真弓の仙谷より迸り出でた谷川と、
武内宿摘にまつはる湯谷から流れ出る小川は、背戸で合流し、岩に砕け又岩を削つて流れる。
又小萩山佐野の谷川は小萩川となり、
懸りては滝となり淵をたたえて待居川又は的川と名を変じて合流する。
その所を要川又は血波川という。
附近の地名に湯摺、城道、猫塚、鳶塚、堂屋敷、扇原、幕投、火梵岩、落寄等の地名がある。
南筑明覧に記載された和歌に
  小萩よりゆすり出でたる要川 扇のたかさ浪やたつらん
これは西行法師の歌と伝へられる。

また、以下の伝承もある。
 要川より待居川を少しさかのばったところ、山川町大字甲田中原村の地に七霊宮はあります。
 要川の戦いに敗れ追手を逃れて肥後に向かおうとする一団の中に、七人の女官がいました。
 しかし、険阻な桜峠を越える気力はなく、追手が迫る身の悲しさ、
 もはやこれまでと流れ下る滝壺に入水して果てます。
 里人はこれを哀れに思い祠を建てて冥福を祈りました。
 七人の女官たち入水後鯰に変身したと伝えられ、当地の人々は鯰を今でも食しません。
 現在、入水した滝を七霊の滝といい、祠を御堂に建て直し七霊宮と称しています。
 また、一人の女官の遺体が田鶴の瀬川(現在の飯江川)を流れ下り海津に流れ着いたので、
 海津の人たちはこれを葬り祠をたてました。


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