T.参考文献
参考文献
(1) 筑後郷土史研究会誌
筑後市郷土史研究会
筑後市水田17-2 筑後市郷土資料館
鹿毛康夫「今山荒人神由来記」(八女市今山) 筑後郷土史研究会誌7号1986・3
鹿毛康夫「安徳天皇伝説」 同誌3号,1984・3
鹿毛康夫「安徳天皇伝説 下野水天宮由来史」 同誌8号1986・9
鹿毛康夫「玉虫姫と小松内大臣平重盛卿のロマンス」 同誌8号1986・9
鹿毛康夫「安徳天皇伝説」 同誌9号1987・4
鹿毛康夫「安徳天皇伝説」 同誌10号1987・10
鹿毛康夫「安徳天皇伝説」 同誌11号1988・4
鹿毛康夫「安徳天皇伝説」 同誌12号1988・10
鹿毛康夫「建礼門院自言自筆」 同誌13号1989・4
鹿毛康夫「安徳天皇伝説」 同誌14号1989・10
(2)wikipedia[安徳天皇]
『浪漫と夢の一族』 平盛諒 さんのHPへ
U.安徳天皇の略歴
略歴(参照:wikipedia)
治承2年(1178年)11月12日に生まれる。
同年12月15日に立太子。
治承4年(1180年)2月21日に践祚し,4月22日に2歳で即位。
政治の実権は平清盛がにぎる。
治承4年(1180),福原(現在の神戸市)に遷都。
すぐに還都。
1183年,源義仲の入京に伴い,三種の神器とともに都落ちをする。
平家一門と共に大宰府を行く。
緒方惟義の急襲により,柳御所を経て屋島に行き,行宮を置いた。
平家が屋島の戦いに敗れると西海へ逃げた。
1185年3月24日,壇ノ浦で平家と源氏が激突。
平家軍は敗北し,安徳天皇は祖母である平時子に抱かれて入水。
8歳で崩御(歴代最年少の崩御)。
母の建礼門院も入水するが,引き上げられる。
この際,三種の神器のうち,神璽と宝剣が海底へ沈んだ。
のちに神璽は引き上げられたが,宝剣は失われた。
佐伯景弘らが文治元年(1185)7月24日に海の中を探したが,
安徳帝の遺骸や宝剣を見つけることができなかった。
三種の神器のひとつである「剣」が見つからなかったことから,
平家伝承では,「剣」がキーワードになった。
また,琵琶法師の語りでも「剣」の巻は,嫡々相伝の語りとして
特別扱いをされた。
V.八女市今山荒人神さまの由来
天明3年に記された由来記には,以下の記述がある。
→ 鹿毛康夫「今山荒人神由来記」に拠り,現代語訳。
そもそも,今山荒人神は,
昔,源平の戦いのときに,新中納言知盛卿の家臣であった伊賀平内左衛門尉家長が
知盛卿のために獅子奮迅の働きをしてみごとに散華したことに因み建てられ,
そのときのいわれとは次のようなものである。
平家は,福原の都を源氏に追われ,一門は皆筑前の国の大宰府に城郭を構え立て籠もった。
京都では,平家が九州の着船したと聞いて評定をした結果,
豊後の国の尾形三郎惟義に追討の院宣が下った。
尾形の先祖は,豊後国と日向国の境にある姥ケ嶽明神の化身である。
尾形は3万騎の軍勢を率いて筑前国博多の津から攻めかかった。
平家の人々は大宰府の城を落ち,筑前箱崎の港に逃げることになったが,
その間,
降る雨は車軸を流したごとく勢いにあふれ,
吹く風は砂を散らし,
悲しみの涙を流しつつ
各々袖を絞りながらの逃避行であった。
箱崎の津から押し寄せる尾形勢を避けながら,
安徳天皇一行は,藤原秀遠を引き連れて
筑前国山鹿の城に籠もった。
しかし,菊池隆直や原田種臣の両人は,秀遠の命令に従うことを先祖に対する恥と考え,
心変わりし源氏に味方することとなった。
よって,安徳天皇一行は安堵の思いをいだくことができないままでいるところへ,
惟義が10万人の軍勢を寄せてくると聞いたので,
武将たちは皆船に乗って豊前国柳ケ裏に移っていった。
ここにて源氏の大将であった源義経は軍勢を率いて攻め戦ったので,
平家の軍兵たちはさんざんに打ち負かされ,
紀民部大輔が長門国(山口県)より船を取り集め,阿波国八島(屋島)に移った。
長門国は,新中納言知盛の領分であり,目代は紀民部太輔光季であった。
四国の者たちは材木を切り取り,城郭を構えた。
それより,屋島・壇ノ浦の合戦は,目を驚かすばかりの次第であった。
平家の運は尽き果てて戦に負けて摂津一ノ谷に逃げ籠もった。
義経の命令で,追っ手や搦め手には熊谷直実,平山の季重の首を取って,
我が身には千余騎を率いて鵯越より攻めたてたところ,
平家軍は一気に総崩れとなり,皆船に乗ろうと先を争う。
源氏の大軍に追い立てられた平氏は,あわれ海上に漂うことになった。
ついに逃げ場を失った平家軍は,絶望のあまり
安徳天皇に二位の尼がお供をして入水,
新中納言知盛も続いて海に入ると見えたが,
からくもその場を逃れ,
主従5〜6騎ばかりで,豊前国小倉の津よりのぼり,
筑前国八丁を越え,
筑後国山本山平野村に着いた。
その頃は,発心山に草野太郎城郭を構え,
かつてのよしみで平家に対して,内々に便宜を図っていた。
しかし,豊後国の尾形の旗下たちは,平家の一門が平野村に潜んでいることを知り,
(草野長平に命じて)追っ手を差し向けてきた。
平知盛は,もはや何もできずいよいよ運の尽きと観念したところへ,
伊賀家長が進み出て,
「ここから水縄山を越えて,肥後国へと落ち延びなさってください。
まことに恐れ多いことながら,
知盛様のお召しになっている赤地の直垂(ひたたれ)をいただき,
討ち死にをする仕度(したく)にしたいと存じます」
と願い出た。
(家長は,知盛の身代わりとなって死ぬことを意味している)
知盛は,家長のことばにまかせ,肥後国五箇山に籠もり,
子孫広がって,やがて米良氏と改名し,その村の大名相当の身分を与えられた。
さて,家長の妻も,知盛の家臣に
「武蔵三郎左衛門尉有国の娘でまだ幼い子をつれてやっと草野村まで来ましたが,
このような窮地に陥りました。
そこで,御身(あなた)は,どこに行こうともこのみどり子を連れて落ち延びてください。
さあ,これでお別れです。」
と杯を交わしつつ,
別れを惜しみ積もる話に時のたつのを忘れ,
夜もしらじらと明るくなっていくにつれ,
草野の軍勢が大きな声で喚き始めた。
(草野の軍勢は,かつての恩を忘れることなく,
なかなか攻めてこようとはしなかった。)
そこで,家長は,(敵が自分を知盛と間違えるように)
その日の装束を,赤地の錦の直垂に葦毛の馬,そして白覆輪の鞍に跨り,
「やあやあ,音にも聞いたであろう。我こそは平家の大将,平知盛であるぞ」
と名乗り,
大勢の中に分け入り,戦いは数度に及んだ。
草野の家臣である合原外記と引きあい組みあい,互いに馬の間に落ちて,
ついに外記に討ち取られてしまった。
今の世までも山本郡平村の藪の中に知盛の墓があるというのは,実は討ち死をした家長の墓である。
さて,家長の妻子3人は連れだって,闇夜に紛れ落ちていき,
上妻郡新庄村近辺にある,松の木のたくさん茂っている平山のなかに隠れていた。
人跡稀な山の中のことでもあり,
あたりに住んでいるのは狐・狸,そして猪や猿ばかりであった。
そこに。小さな庵を結び日々を過ごすうちに
兄弟たちは並の人とは異なり常に荒技をもって生計を立てるようになったので,
近隣の者たちからは「荒人」と呼ばれるようになった。
それは,源氏の世の中では身を忍ぶ姿であるため実名を名乗るわけにもいかないという事情による。
ただし,子孫は,「服部」の名前を名乗った。
その由縁は,母方の有国が武蔵国服部を治めていたからであった。
平家が,まだ没落する前のことであったが,
源義朝が高倉院に謀反をおこしたとき,
有国が一方の大将として活躍したため,
その恩賞として武蔵国服部郷を拝領した。
そのために,「服部」の名前を子孫は用いたのであった。
子孫が広がるにつれ荒人の塚の上に祠を建てて,
毎年,例祭を執り行っていた。
服部家には,ひとふりの長刀(なぎなた)が伝わっていた。
しかし,惜しいことに今はどこにいったのかわからない。
この長刀は,知盛の子息の知章という者がいたが,
有国を烏帽子親に頼んだ際,
知盛から拝領したという由緒ある長刀であった。
また,槍1本が伝わっていた。
これは,家長が宝長合戦のおりに,
五百余騎の大将を務めていたときに盛っていた槍であって,
たびたびの功名に輝いたものであった。
九州の地まで持ち来て,子孫の者の宝として持ち伝えてきたものであった。
天明三年二月
槍は,穂先のみ現存。古は,このほかに剣・弓の矢などもあったという。
久留米市水天宮由来
久留米市水天宮の由来[平家落人伝承:二位の尼]
安徳天皇にずっと仕えていた侍女按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は,
安徳天皇の崩御したため,
毎日泣き暮らし「尼御前社」を創立して,読経三昧の日々を送り菩提を弔った。
この「尼御前社」が水天宮の由来である。
「尼御前社」は,
小森野,新町1丁目と転じて,
慶安3年(1650)9月に現在の瀬の下に遷宮された。
平知盛は,浮羽郡田主丸竹野の知盛塚に祀られている。
(伊賀家長の墓であるとも言われている)
八女市には,平知盛(友盛)の子孫平隆吉氏が住んでいる。
知盛の血を引く知定・知時などの人物が記録されている。
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