監修:仲井克己 報告:青田隆太 日本地図を逆さまにしてロシアの側から眺めてみると、 日本がアジアのはずれに位置する弧状列島であって、 常に大陸と関係を持っていたことが感覚的に了解できるはずです。 日本は、海を情報の幹線ルートにして存立してきた国です。 参考文献 網野善彦(文)・司修(絵) 『歴史を旅する絵本 河原にできた中世の町(へんれきする人々の集まるところ)』 岩波書店,1988・8 平安時代末から鎌倉時代にかけて、 中州や河原は「この世」と「あの世」との境界と意識され、 境で活躍する人々が集まり始めた。 やがて、中州や河原には、市が立つようになります。 牛や馬などを殺し解体する者たちもやってきました。 南北朝時代には、 中州や河原に舞台が設けられ、田楽などが催されました。 中州や河原の町は、ときには洪水や津波に襲われることもありました。 しかし、河原は、つねに人々が集まり、新しい時代を作り出していきました。 この絵本は、そのような河原の歴史を絵で表現しています。 上田篤『都市と日本人』岩波新書854、2003・9など 上田篤『日本の都市は海からつくられた』中公新書 上田篤『海辺の聖地』 日本が海に浮かぶ国との認識は、 『古事記』『日本書紀』の国生み神話が、 「島」の成り立ちを中心に書かれて 「山」に対する意識が希薄なことからも理解できます。 では、どれくらいの早さで<情報>は、海の上を伝わっていったのでしょうか? コロンブスの時代を例にとって考えてみましょう。 新大陸を発見したコロンブスは、 1493年5月にスペインの首都バルセロナでイサベラ女王に謁見。 1495年には、コロンブス一行が持ち帰ったスピロヘータは、イタリアで流行。 このとき、フランス軍がイタリアに攻め込んだときであったため、 フランス軍はナポリ病と称し、イタリア軍はフランス病を命名して恐れたということです。 1498年、ヴァスコ・ダ・ガマによってインドに運ばれ、 1505年に広東、そして1512年には倭寇により日本に持ち込まれました。 その後猛威をふるい、津々浦々(つまりどこの湊にも)梅毒がまき散らされ、 徳川家康の第二子結城秀康も梅毒のために鼻がもげて絶命しています。 さて、大陸から見れば 表は日本海側です。 裏の太平洋側で遭難すれば、 どことも知れぬ果てなき海を あてどもなく漂う運命を 覚悟しなければなりませんでした。 房総沖は 遠州灘などと同じように 航海の難所です。 勝浦の岬に 「日本海軍駆逐艦沖風殉難平和観音像」 が立っていることからもわかるように、 近代装備を誇る駆逐艦ですら 座礁することがありました。 このような難所を航海して 江戸に向かう渡海船は、 風と潮を読みながら 太古以来まだ一度も木を伐ったことがないという 州崎神社の建つ大山を右手に見て、 鋸山をランドマークに浦賀水道を慎重に北上。 富津岬を大きく左に迂回して 木更津から袖ヶ浦へと入っていきました。 姉崎神社から島穴神社沖にたどり着く頃には、 数々の難所を無事に越えた船頭の誇らしげな顔とともに、 水夫たちの安堵にみちた笑顔も 見ることができたはずです。 コロンブスの時代には、 島穴神社から養老川河口の砂州近くには 「市」が形成されていたと考えられます。 そこは、鎌倉の和賀江の津と同じように 幕府法の及ばない空間であったのかもしれません。 大風が吹くたびに波に洗われてしまうような危うい土地でも、 「自由」であるということは 自然災害の脅威にもまさる大切なものでした。 交易の中心地には、信仰の場が発達します。 龍昌寺について調べてみましょう。
昔、養老川は、交易と情報の幹線でした。
川岸には、龍昌寺が建っていました。
寺の繁栄は、
地域の経済と大いに関係があります。
現在、龍昌寺の建っているあたりは内陸化が進んだ結果、
この周辺を歩くと農家が目立ちます。
臨海工業地帯も、ずっと西の方にあります。
しかし、
(1)「松ヶ島」という地名が残っていること
(2) 前川の向こう岸の青柳に船霊神社が建っていること
などから、この地域は、
川や海と密接に結びついて発展してきた地域であったことは明らかです。
実際、現在の五井駅のすぐ南側を掘ると、
海岸の砂利や貝がたくさん出てきます。
五井駅からは、潮干狩りのためのバスも運行されていました
飯沼龍昌寺の寺伝には、次のように記されています。 そもそも、この寺に安置されている観音像は 聖徳太子が自ら彫った三体の仏像のなかの一つでありました。 あとの二体は大阪四天王寺と大和法隆寺に置かれています。 太子は、東海の衆生を救うために 一体の仏像を難波の海に一体を流したところ、 養老川河口に流れ着きました。 しかし、そのまま水底に沈んでおよそ五百年の年月が過ぎ去り、 天仁元年(1108)に龍昌禅師が 光るものが川に落ちた というという夢を見たことにより発見。 これらは、春日明神のお告げであったということです。 聖徳太子信仰は、 惣社の国分寺の西にある太子堂や 養老川上流牛久の真が谷太子堂にもあり、 養老川を幹線とする情報の道によって結びついていたと考えられます。 牛久の市場から真が谷太子堂のそばを通り大場の四天王峠道を行くと、 笠森観音に出ます。