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芥川龍之介 [羅生門]
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人間存在の深層


芥川が『羅生門』を執筆するのは大正4年9月のことです。

大正3年4月20日から8月11日にかけて,
東京と大阪の朝日新聞に夏目漱石が『こころ』を連載しました。
『こころ』は,次のような特徴があります。
 (1)『行人』に続く長編小説
 (2)エゴイズムの追求と批判が,より徹底した形でされている。
 (3)漱石自筆の広告文 「人間の心を研究する者はこの小説を読め」
 (4)高度に自己否定に到達した人間像を創出し, 同時代文明への批判をした。
 注:上記の指摘は,三好行雄「『こころ』について」(新潮文庫『こころ』)による。


芥川は,『こころ』をどのように読んだのでしょうか?
次にあげる『こころ』に記述された「先生」のことばに注目すべきです。
  「私は他(ひと)に欺(あざ)むかれたのです。
  しかも,血の続いた親戚のものから欺むかれたのです。
  私は決してそれを忘れないのです。
  私の父の前には善人であったらしい彼等は,
    父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に変わったのです。
  私は彼等から受けた屈辱と損害を子供の時から今日まで背負わされている。
  恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。
  私は死ぬまでそれを忘れる事が出来ないんだから。
  然(しか)し,私はまだ復讐をせずにいる。
   考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。
   私は彼等を憎むばかりじゃない。
   彼等が代表している人間というものを,一般に憎む事を覚えたのだ。
  私はそれで沢山だと思う。」
  私は慰藉(いしゃ)のことばさえ口に出せなかった。

「先生」=「強力な頭脳」をもった智者。
     もっとも高貴で優秀な人間の心の中にも,[闇]は潜む。

芥川龍之介は,漱石の『こころ』を読み,文学の核心を明確に意識していきます。
その後,芥川龍之介は,漱石を第一読者に想定して作品を書くようになります。
そして,漱石門下の俊英として世に知られるようになりました。


『羅生門』の時代


『羅生門』の時代設定は,平安時代末期になっています。 そのころの,都の状況について確認しておきましょう。 数年おきに飢饉に襲われ, 飢饉は流行病を呼び込みました。 当時,都に住んでいたのは15万人前後といわれています。 消費をするだけの<都市空間>は, 数年おきに繰り返される飢餓と病に耐えることで,どうにか歴史を刻んできました。 『餓鬼草紙』には,病に倒れた人々が 生きたまま遺棄された画像が描かれています。 流行病は,家族やその周りの人々を巻き込むため, 病気を患えば,家から出て鴨川の河原に横たわり,死を待つしかありません。 病院のない時代です。 ――業病に苦しむ者 ――足や手が不自由で働くことができない者 それらの人々は, 清水寺の坂のあたりに住み, 「坂の者」とさげすまれながら, かろうじて命を保っていました。 死ぬと, 遺骸は六道の辻(六波羅蜜寺の北側の辻,冥土の通い路)あたりにたむろしている 珍皇寺の下人などによって引き取られ, 今熊野あたりの山に埋められました。 珍皇寺門の右側に,小野篁(おののたかむら)の堂が建っています。 小野篁は,ここからこの世と冥府とを往還しました。 珍皇寺には,地獄に続いているという井戸があります。 井戸の上には鐘が吊ってあり, その音が地獄に響くということです。 珍皇寺の西には,今は嵯峨野に移築された愛宕念仏寺という 念仏三昧のお寺が建っていました。 ここでは,雑芸能で身を立てていた「唱門師(声聞師)」らが 境内でさまざまな遊芸を演じていました。 「坂の者」たちにとっても,生活の場となっていたはずです。 考えてもみてください。 毎日,15万人が水を飲み, 何を食べるにしろ, とにかく「ご飯」を食べて, 少々尾籠(びろう)な話ですが, オシッコやウンコをするのです。 消費と排出。 すべてが15万人分です。 煮炊きをするためにも,日々相当な木を必要としていました。 都は,汚穢(おえ)に満ちていました。 堀川が死体で埋まったこともあります。 病院もなければ, 救護所もありません。 力が尽きたら死ぬのを待つだけです。 不条理な死をとげた者は, 怨霊になって都の夜を跋扈しました。 人々は,絶望の淵に喘ぎながら, 漆黒の闇の中で ただひたすらに祈る日々を過ごしていました。

[羅生門の世界]

行き場を失った一人の男が,都の入り口にある羅生門の下に立っています。
この場面から,お話は始まります。

都の中に死体があふれていました。
時代は,おおよそ100年くらい違いますが,
方丈記には,こんな記載があります。
  仁和寺の隆暁法印が「阿」字を書いた遺骸の数を数えたところ,
  左京のみで42300人もあった!

左京とは,都の中央を貫く朱雀大路より東側にあたる地域です。
右京よりも開けていました。
貴族の邸宅も,左京に集中しています。
羅城門は,都の入り口にあり,この門をくぐると朱雀大路に出ます。
『羅生門』の主人公である下人は,仕事を失いこの門にたたずむことになります。
この門は,いろいろな意味で境界に位置していました。

さて,ここで問題です。
 
  下人は,都に向かって立っているのでしょうか?
  下人は,都に背を向けて立っているのでしょうか?
 
芥川龍之介の『羅生門』は,このような疑問から始まり,さまざまな問題を提示し続けます。
もちろん,これらの問題に答えはありません。

100年後,どこかの学校でも,
「古典」の時間に『羅生門』を読みながら,
「自分とは,何者なのか? それを問う小説なのだ」
と先生は電子チョークで書いているのかもしれません。
さまざまに考えること−−これが『羅生門』の原点です。


[問題の設定]

芥川龍之介の『羅生門』を読むときにもっとも重要なものは,[問題の設定]です。
そこには,人間に対する理解の深さが現れます。
以下,思いつくままに問題を並べてみます。
  1. 「生」とは?(この世は,生きる価値があるか?)
  2. 「私」とは,何者か?
  3. 「他者」とは?
  4. 「虚無」とは?
  5. 「善」とは?
  6. 「悪」とは?
  7. 「神」とは?
  8. 「罪」とは?
  9. 「罰」とは?
  10. 「モラトリアム」とは?
  11. 「救済」とは?
  12. 「死」とは?
  13. 「光」とは?
  14. 「闇」とは?
  15. 「人間」とは?
  16. 「都市とは?」
  17. 「国家」とは?
・私たちは,常に日々変化する「私」と出会い,「私」を知ろうとしている。
「人生は,路上のカクテルパーティである」ツイスト 1975頃
「人生は欲望ゲームの舞台である」
  竹田青嗣(『「自分」を生きるための思想入門』芸文社)
・人間の心は,あまりに広くあまりに深い。
 そして,こころのすべてを見るためには,人生は短すぎる。
 だから,人間は,宇宙と同じく心の中の世界をほとんど知らないで生きている。
・人間の頭脳は,都市に投影されている。
 共に,光と闇が交錯し,相互に補完しあっている。
 都市から悪所をなくそうとしても,移動するだけであり追放することはできない。
 人間のこころに,悪所が存するからである。
・善と悪は不二であり,同一の存在の表と裏である.
・人間の頭脳は,善悪や正義や真理を判断できるようには作られていない。
・生きること――これがすべてである!
・人間は,状況の中で「役割」を見つけ,それを演じることによって安心できる。
 しかし,実際は,なにものでもない。
 自分を見つけたと思っているのは,単なる錯認である。
・人間は,関係性の中で生きている。
 人間にとってもっとも恐ろしい罰は「孤独地獄」に落ちることである。
 「善」や「悪」に対する考察といってもは,所詮論理を弄んでいるに過ぎない。


[主要参考文献]

本稿は,主として以下の著書から多くの教示を仰いだ。
(1)唐木順三『芥川龍之介論』(日本文学研究資料叢書芥川龍之介2 有精堂)
(2)三好行雄『芥川龍之介論』1976/9 筑摩書房
(3)竹田青嗣:A『「自分」を生きるための思想入門』1992/5 芸文社
       B『現代思想の冒険』1987/4 毎日新聞社
(4)森正人「<羅生門>への途--方法の獲得--」熊本大学文学部論叢35 1991年11月
(5)志村有弘編『芥川龍之介「羅生門」作品論集成』(大空社1995,11)
(6)首藤基澄『「きりぎりす」から新解釈』朝日新聞1997/3/28 など
(7)「芥川龍之介」関口安義 岩波新書414,1995/10
(8)「マガジン青春譜」猪瀬直樹 小学館1998/5/20
(9) 現代日本文学アルバム 人と文学シリーズ「芥川龍之介」学習研究社
(10)「芥川龍之介作品研究」笠井秋生1993/5/28 双文社
(11)「芥川龍之介論攷」海老井英次桜楓社1989
(12)「羅生門」を読む 関口安義 小沢書店1999/2/10
(13)『羅生門』浅野洋 編 翰林書房2000/3/30
(14)「芥川龍之介事典」

[TEXT]
『羅生門・鼻・芋粥・偸盗』岩波文庫1960年11月

[芥川龍之介「王朝もの」:大部分は初期作品]
・羅生門 大正4年11月
・鼻   大正5年2月
・芋粥  大正5年9月
・運   大正6年1月
・道祖問答 同
・偸盗  大正6年4月-7月
・袈裟と盛遠 大正7年4月
・地獄変 大正7年5月
・邪宗門 大正7年10月-12月
・龍   大正10年4月
・往生絵巻 大正10年4月
・好色  大正10年10月
・藪の中 大正11年1月
・俊寛   同
・六の宮の姫君 大正11年8月
・二人小町 大正12年3月


[「羅生門」執筆前後の略年譜]

芥川龍之介(明治25年1892/昭和2年1927 36歳没)
東京大学英文科卒業 日本・欧羅巴・中国の文学に造詣が深い。

大正2年1913
旧制高校時代の芥川は,
浄瑠璃本,ツルゲーネフ,モーパッサン,ストリンドベリ,ロシア近代小説 
などを読む。
第一高等学校文科卒業。26名中2位。
尚,一位は,芥川と親しかった井川恭(京都帝国大学法科へ進学)。
東京帝国大学文科大学文学科英吉利文学専修に入学。

芥川は,大学の講義には興味を感じなかった?
「僕に文芸を教えたものは
 大学でもなければ図書館でもない。
 まさにあの蕭条たる貸本屋である。
 僕は其処に並んでいた本から,
 おそらくは一生受容しても尽きることを知らぬ
 教訓を学んだ」
(「僻見」女性改造1924/3から/9)
ちなみに,子供時代の愛読書は,「西遊記」「水滸伝」(「文芸倶楽部」1920/8)であった。

大正3年1914
2月に,第三次「新思潮」創刊。
菊池寛・久米正雄・土屋文明・豊島与志雄・松岡譲らが参加。
久米や松岡の影響を受けて,芥川龍之介も加わり,
柳川隆之介の筆名でアナトール・フランスやイエイツなどの翻訳を載せる。
また,処女作「老年」を発表。遊び呆けた老人のわびしい姿を描く。
ついで,戯曲「青年と死と」を発表。
これらは,「生」への問いが主題となった作品である。
芥川が,聖書を熟読した最初の時期。
(英訳版『聖書』は一高在学中に井川恭から贈られる。THE NEW TESTAMENT)
夏に吉田弥生と交際。(see:#B)
  7月,第一次世界大戦が始まる
9月,第三次「新思潮」廃刊。
秋,芸術への覚醒。(see:#A)
「ジャン・クリストフ」を愛読。

大正4年1915
  1月,対中国二十一箇条の要求。5月日華条約調印。
  8月全国中学校野球大会
吉田弥生と別れる。
5月から6月にかけて,病。
失恋後の吉原通いなどが影響?

8月井川恭の故郷である松江へ旅をする。(8/3出発。城崎経由8/5松江着。8/21帰途)
松江城濠端の家(中原お花畑)にて過ごす。
この家は,前年に志賀直哉が住んでいた。(志賀直哉「濠端の住まひ」)
芥川龍之介の名で「松江印象記」を松陽新報(大正4年8月)に載せる。
「帝国文学」大正4年11月号に「柳川隆之介」の名で『羅生門』を発表。
(ただし,同人からもたいした評価を得たわけではない)
「羅生門」は,松江から帰った直後の9月半ばから月末までに執筆?
大正4年8月下旬に刊行された校註国文叢書「今昔物語」下巻を典拠に執筆?

この頃は,大学へは,火水金土の午前のみ行くという生活を送っていた。
ロマン・ロランの「トルストイ伝」を成瀬正一らと翻訳。
(「アンナ・カレニン」と「老年」を担当)
(夏目漱石を第一読者に想定した同人誌発行の資金を得るため)
トルストイの『戦争と平和』を読む。
12月塚本文を結婚相手に考える。  
12月,林原耕三の紹介で,久米正雄とともに夏目漱石の木曜会に出席。
以後一年間,漱石が死去するまで師事。
漱石没後,長女の筆子の結婚相手と目された時期もあった?
(see:「芥川龍之介の人と作品」鑑賞日本現代文学『芥川龍之介』海老井英次)

尚,大正4年という年は?
夏目漱石:48歳。『こころ』は,大正3年に連載。『硝子戸の中』『道草』を連載。
     大正5年12月9日死去。
森鴎外:53歳。『山椒大夫』『歴史其儘と歴史離れ』などを発表。
    (大正元年に野木希助大将の殉死を契機に歴史小説の創作が始まる)
島崎藤村:43歳。パリ在住。
谷崎潤一郎:29歳。千代子と結婚。
志賀直哉:32歳。
芥川龍之介:23歳。

大正5年1916
7月東京帝国大学文科大学英吉利文学科20人中2番で卒業(豊田実が首席)。
卒業論文のテーマは,「ウイリアムモリスの研究」。
大学院へ進学。のち,除籍。
8月文に求婚
11月海軍機関学校へ就職
久米正雄・菊池寛・松岡譲らと第四次「新思潮」を創刊。
「鼻」によって,漱石に認められる。文壇に登場。
「聖書」を出典とする『暁』を発表。
9月,「芋粥」を発表。
10月,「手巾ハンケチ」を「中央公論」に発表。
「この頃僕も文壇への入籍届だけは出せました」(原善一郎宛書簡10/24)
11月,横須賀の海軍機関学校へ英語の教師として就職
12月,夏目漱石死去。
「精神的にも肉体的にも疲労したというか何だかぽかんとして」(松岡譲12/17)
塚本文との婚約が決定。

[参考]
芥川龍之介は,「新現実派」「理知派」と称されることがある。
新現実派(理知派・新思潮派)
 古典を舞台として,説話上の人物,歴史上の人物を登場させ,
 計算し尽くされた緻密な構成と,独自な文体とをもって,
 人間の心理を明晰に描写した。
 即ち,登場する人物は古典に登場する人物であっても,
 芥川龍之介が分析したのは
 近代的自我をもった人間における深層に眠る心理であった。
 極度に研ぎ澄まされた感覚と古今東西に亙る豊かな知性によって,
 現実社会を自分の筆によって再構成し,
 自分の世界を作品の内部に構築した。
 晩年には,時代の流れに追従することのない懐疑的な精神を持ち,
 それは,強烈な自我意識に裏付けられた厭世的人生観を生みだし,
 新しい文学を創出したが
 「将来に対する漠然とした不安」(遺書)を抱いて自殺した。
理知派:「人生を銀のピンセットで弄んでいるようだ」(菊池寛の評)
   <真>自然主義・<善>人道主義・<美>耽美主義に対して,己の個性を大切に
   して,理知により人間の探究をめざした。 
芸術至上主義:「人生は一行のボードレールに如かず」
『羅生門』=大正4年。作家の誕生を告知する作品。芥川龍之介24歳。
 芥川龍之介の歴史小説:古人と近代人の間に通じる<ヒューマンなひらめき>
           をとらえ,古人の心理に近代的近代的解釈を加えたもの。
『羅生門』:『橋の下』(F.ブウテ。森鴎外訳)を参考にした?
     『今昔物語集』を資料に使う。
  (注)芥川龍之介の『今昔物語集』に対する考え方
    ・『今昔物語集』の芸術的生命は,「生々しさ」にある。
    ・『今昔物語集』のbrutality(野生)の美しさ。
    ・『今昔物語集』は事実を写すのに少しも手加減していない。
     但し,芥川は,説話中の人物に複雑な心理を見ていない。
    「彼らの心理は陰影に乏しい原色ばかり並べている」
       see:『日本文学講座』6巻 新潮社 S2/4



芸術への覚醒

大正3年1914秋:芸術への覚醒
ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』や,マチスやゴッホに触発されて
感傷的な文章や短歌とは訣別して,
ちからの漲ったもの,生命力にあふれたものへと傾倒するという,
画期的な内的変化を遂げた。
感傷的なものを超克して生命力あふれるものへの飛躍
(「日をうけてどんどんのびていく草のような生活力の溢れている芸術」)
という「自我覚醒」のドラマを
そのまま作品化したものが準処女作『羅生門』であった。

[参考1]
「或阿呆の一生」『改造』昭和2年10月に以下のように記述。
彼(芥川龍之介)は突然,
――それは実際突然だった。
彼は或本屋の店先に立ち,
ゴオグ(ゴッホ)の画集を見ているうちに
突然画というものを了解した。

[参考2](「芥川龍之介とその時代」久保田正文 人と文学シリーズ「芥川龍之介」学習研究社)
芥川龍之介の文学と思想との内面に,
超え難く内在するアポリアは,
<芸術のための芸術>主義と,<人生のための芸術>主義との,
二律背反である。
別のことばで言えば,アイデアリズムとリアリズムとの対立である。
「西方の人」のことばを使って,
<永遠に超えんとするもの>
と
<永遠に守らんとするもの>
との対立と表現するひともあるだろう。
絶対に調和しがたいそれら二つの極が,芥川龍之介の内で同時併存的にせめぎあう。
注:「アポリア」 アリストテレス哲学において,一つの問いに対して二つの答えが成 
        立することをいう。解決の見いだせない難問。


大正3年の<芸術への覚醒>の時期
夏目漱石の「こころ」が朝日新聞に連載される。
「私は自分のこころを完全に制御し,誘惑を克服し,精進することのできる人間である」
と信じて疑わなかったKであったが,
自らのこころに破れて自殺をする。
「私は,善人である。友人を裏切ることなど,決してしない」
と自己のこころを信じていた「私」であったが,
親友を裏切り,
ついには自殺に追い込まれる。
夏目漱石の『こころ』とは,
自分の心に敗北した二人の近代的知識人における心のドラマである。
芥川龍之介は,「羅生門」執筆前年に「こころ」を読んでいた。

このとき,森鴎外は,歴史小説という新しいジャンルを創出しつつあった。


[恋]

#B大正3年1914:芥川龍之介と吉田弥生
吉田弥生と交際
年末に吉田弥生宛てた書簡。
こは人に御見せ下さるまじく候。
YACHANとよびまつらむも,かぎりあるべく候。
いつの日か,再 し・ゆ・う・べ・る・とが哀調を,共にきくこと候ひなむや」

芥川は,弥生と結婚することを望んだ。
しかし,秋には,弥生に陸軍中尉金田一光男との縁談がもちあがった。
それを確かめるために芥川は弥生と会う約束をしたが,
手紙の行き違いで果たせなかった。

大正4年1915早春
芥川龍之介は,吉田弥生との結婚を養父母と叔母フキに持ち出したが反対される。
フキは,夜通し泣いて反対し,芥川も夜通し泣いて結婚を懇願した。
結局,芥川は,吉田弥生との結婚をあきらめる。

その直後から,芥川は吉原へ通い官能に耽る。
(間接的な養家への反逆? see:竹盛天雄「芥川龍之介研究」1981)
この時期,芥川は,人間のこころを凝視しながらも,
「聖書」を読んでいる。

吉田弥生の結婚式の前日,芥川は富田砕花の家で最後の別れをしたという。
芥川家が吉田弥生を認めなかった理由は?
?「相手の女性が士族ではなかった」葛巻義敏説
?「吉田弥生は婚外子として出生し満16歳で吉田長吉郎に認知されていたため,
  芥川家は戸籍を問題にした」森啓祐
?「スキャンダルで紙面を賑わせた新聞に,弥生の名前があった」森本修

 各説共に芥川がふられたように考えてはいないが,
 実際には,芥川はふられていたのでは?

 日清戦争・日露戦争に勝った日本は,第一次世界大戦にも参戦しつつあった。
 学生,それもろくでなしといわれた文学部(!)学生と陸軍中尉とでは,格が違う?
 大正5年11月,横須賀の海軍機関学校へ英語の教師として就職するが,
 これは芥川龍之介にとっても喜ばしいことであった。
 大正3年の段階では,陸軍中尉と張り合っても勝負は明らかでは?

[参考]
吉田弥生
明治25年3月14日生誕。芥川龍之介と同年。
東京深川出身。下町育ちということも,芥川と共通する。
大正2年1913青山女学院英文専科予科を卒業。
弥生の父は,東京病院に勤務(会計)。
芥川の実家耕牧舎は東京病院に牛乳を搬入し,両家の交際となった?
才色兼備の女性。
はっきりとした考えを持ち,近代的な女性であったか?

芥川龍之介は,井川恭に破局に至った詳細を書き送っている。
大正4年2月28日
(芥川龍之介全集10,P207)
参考芥川龍之介書簡大正4年3月9日井川恭宛
イゴイズムをはなれた愛があるかどうか
イゴイズムのある愛には 人と人との間の障壁をわたることはできない
人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒すことはできない
イゴイズムの愛がないとすれば人の一生ほど苦しいものはない 
周囲は醜い 自己も醜い そしてそれを目の当たりに見て生きるのは苦しい
しかも 人はそのままに生きる事を強いられる
一切を神の仕業とすれば 神の仕業は 悪むべき嘲弄だ
僕はイゴイズムを離れた愛の存在を疑う(僕自身にも)
僕は時々やりきれないと思うことがある
何故こんなにしてまでも生存を続ける必要があるのだろう と思うことがある
そして最後に神に対する復讐は 自己の生存を失う事だと思うことがある
僕は どうすればいいのかわからない
君は おちついて画をかいているかもしれない
そして 僕のいうことを浅はかな誇張だと思うかもしれない
(そう思われてもしかたないが)
しかし僕にはこのまま回避せずにすすむべく強いるものがある。
そのものは僕に周囲と自己とのすべての醜さを見よと命ずる
僕は勿論亡びることを恐れる
しかも僕は亡びるという予感をもちながらも 此ものの声に耳をかたむけずにはいられない。
(以下略)

松江旅行に行く前の春に,芥川は恒藤恭に宛てて次の歌を書き送っている
・人妻の上をしのびて日もすがら 藤の垂花わが見守るはや
松江から帰ってからの冬にも,恒藤宛に歌を送っている
・菊みればかなしみふかしそのかみの菊もわぎももなしもわぎもも
 わぎも:「我が妹」が変化。男性が妻や恋人を親しみの気持ちをこめて呼ぶ語。

こぼれ話
「思ったとおりに書け」……???
このことばは,いつごろ,誰が言い出したのか。
 大正4〜5年頃芥川龍之介と師匠の夏目漱石が,文章の書き方について論じていた。
 芥川が志賀直哉を褒めて
  「どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」
 と漱石に尋ねた。
 漱石は,
  「文章を書こうと思わずに,思うままに書くからだろう。
   俺もああ言うのは書けない」
 と答えた由。(丸谷才一『文章読本』)
・大正4年=漱石49歳。胃潰瘍悪化,翌年12月9日死去。
      龍之介24歳。『羅生門』執筆。翌年,『鼻』・『芋粥』。
明治を代表する文豪夏目漱石と,
大正時代の旗手芥川龍之介が,
文章を書くにあたって悩み続けていた。
二人は,志賀の才能を認め,
志賀の文章の特徴を「思うままに書く」その文体に求めた。
しかし,大作家夏目漱石の筆をもってしても,志賀の真似はできなかった.




羅生門 資料編 [評価]

総説
『今昔物語集』を典拠としながらも,極限状況における人間の実相を描き,
日常の共同幻想が崩壊したために露呈した生の本質を芸術作品として形象化した。

『羅生門』の梗概
羅生門の下「黄昏時(タソガレドキ)の世界」
・起
 ある日の暮れ方(平安時代),都の正門である朱雀大路の南端に位置する羅生門に,
  行き場を失った一人の下人が,雨やみを待って独り佇んでいた。
 当時,羅生門は,死体の捨て場所になるほど荒廃していた。
 そこに独り座り込んだ下人は,飢え死にをせずに生きていくためには,
  盗人になるよりほかはないと考えながらも,決心できずにいた。
・承
 夜が近づくとともに,下人は死体と一緒に眠るほかないと羅生門の梯子をのぼるが,
  そこには「猿にような老婆」が死骸から髪の毛や衣類を剥ぎ取って生きていた。
  それを見た下人は,「頭身の毛も太る」ほどの恐怖を感じた。
  しかし,その恐怖が去ったあとには,猛然と悪を憎むこころがわきあがり,
  楼上にとびあがって老婆を押さえ込んだ。
・転
 厳しく問いつめる下人に対して,老婆は「生きていくために,
  ここにいる死人の髪の毛を抜いて鬘にしようと思った。
  この死人たちも生前は生きるために悪事を働いていたのであるから,
  自分がこうして髪を抜いてもとがめだてはできない。
  みんな,生きるために仕方なくしているのだ」と答えた。
・結
 下人は,老婆から生きるために悪を肯定する言葉を聞き,
  自分も生きるということがどのようなことを意味するのかだんだん分かりかけてきた。
  それは,悪をはたらく「勇気」となって下人の行動を促した。
  下人は,老婆の衣類を剥ぎ取り,しがみつく老婆を蹴倒して「黒洞々たる」闇の彼方に走り去っていった。

執筆の背景
「あの頃の自分の事」芥川龍之介(『中央公論』大正8年1月)
「帝国文学」編集者青木健作の「好意」によって活字にできた作品。
文壇的には話題にもならず,「新思潮」同人たちの注意を喚起した様子もない。

自分は半年ばかり前から悪くこだわった恋愛問題の影響で,独りになると気が沈んだから,
その反対になるべく愉快な小説が書きたかった。
そこで,とりあえず先,今昔物語から材料を取って,この二つの短編を書いた。
書いたといっても発表したのは「羅生門」だけで,「鼻」の方はまだ中途で止まったきり,
暫くは片がつかなかった。
  注:「愉快な小説を書きたかった。」=「愉快」とは,エンターテイメントではない。
                                    生の根源を照射する文学を意味する。
                                     <芸術の覚醒>を芥川なりに言い換えた表現とみなすべきであろう。


『羅生門』執筆の意図
 [初恋の破綻/エゴイズムの認識/虚無への覚醒]
   否定的なエゴイズムを認めるにしろ,
  「失恋事件はいわば感傷を思想に変える契機であった」(三好行雄『芥川龍之介論』)のであり,
   <自我の覚醒><芸術の覚醒>といった肯定的な自己の開眼を作品誕生の基底に置くべきである。 

『羅生門』の評価
  「下人の心理の推移を主題として,あわせて生きんが為に,各人各様に持た
   ざるを得ぬエゴイストをあばいている」
               (吉田精一「芥川龍之介」新潮文庫 S33.1)
               (注:吉田精一『芥川龍之介』昭和17.12) 
  「エゴイズムなどという概念では律しきれない実存としての存在悪を認め,
   悪が悪の名において悪を許すという倫理の終焉する世界が青年作家芥川の
   固有の深い虚無によって裏打ちされ,下人を呑み込んだ深い闇にいかなる
   救済をもうちにふくまない無明の闇をみてとる。
   『羅生門』は,芥川龍之介の内なる「虚無」,およびその心の「暗部」の
   芸術的形象化である。」       (三好行雄『芥川龍之介論』S51.9)
  「善と悪とを同時に併存させる矛盾体としての人間を提示した」
                 (駒尺喜美『芥川龍之介の世界』S42.4)

芥川龍之介から離れて様々に考えてみると,,,,,
  私は,あと10分間,教師の役割を演じる。
  君たちは,あと10分間,学生の役割を演じる。
  チャイムが鳴ったら,この関係はご破算になり,それぞれがそれぞれの物語を紡ぎ
 に舞台に向かう。
  本来は,通行人Aと通行人Bという関係でしかない。

    大学を卒業したら,君たちは主人公として物語を紡ぐために社会という大舞台に立つ。
  人間の人生(物語)は,喜怒哀楽すべてが内在していなければならない。
  そして,しれらすべてを忘却の川に流し去ることで物語は終焉を迎える。
  最後の瞬間に,「ああ,生きてよかった」「面白かった!」
  と心から思える偉大な物語を創出したまえ。
    (私の講義のすべてを集約すると,下線の部分になる。)

参考
(1)ヘーゲル「自己意識の自由」
「自己意識の自由」とは,
人間は誰でも必ず,自分は何ものにも依存していないで自分だけで立っている
という意識,
「おれはおれだ」
という意識を得ようとする本性を持っているということです。
しかし,この「自己意識の自由」は,じつは他者との関係のなかではじめて実現される。
だから人間の本質は他者(あるいは,社会)との「関係」の中にこそある。
(see:竹田青嗣『「自分」を生きるための思想入門』)

(2):岸田秀の「自我論」
自我というのは,自分の自我を安定させようとする欲望である。
欲望というのは,「物語」の形をとる。
その「物語」とは,すでに社会の中に存在する「物語」の借り物である。
しかし,どんな「物語」を実現しても,本当には満足できない。
(see:竹田青嗣『「自分」を生きるための思想入門』)
補足説明
我々は,独自の物語を創出している錯覚に陥っているだけであって,
実際には小さいときにインプットされた情報から自画像を描き出し,「物語」として自分の人生を描いているに過ぎない。

「羅生門」に登場する下人は,境界線上にたたずみ,「物語」を喪失していた。
老婆に出会い,老婆の行動を意味づけることで,いわゆる善悪二つの「物語」が下人の脳裏をよぎる。
しかし,それらは,既成の「物語」なのであって,下人のこころの表層をしめる理屈でしかない。
物語をどれだけ剥いでいっても,核になっている自己は露呈しない。
善悪が交錯する世界を彷徨うしかない人間の実存が,「羅生門」の闇となっている。

[歴史物語:『今昔物語集』と『羅生門』の比較]
・『今昔物語集』=事象を追跡する。
 人間の行為を描写するが,心理の分析には欠ける所がある。
 男の心理については言及していない。
・芥川龍之介「羅生門」=事象+心理
 人間の心理を分析する。そのときの人間の心とは,近代に生きている人間の心理である。
 人間の心は,光の部分と闇の部分を持っている。
例『鼻』
 「人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。
勿論,誰でも他人の不幸に同情しない者はない。
ところがその人がその不幸を,どうにかして切り抜けることができると,
今度はこっちで何となく物足りないような心持ちがする。
少し誇張して云えば,もう一度その人を,同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなる。
そうして何時の間にか,消極的ではあるが,ある敵意をその人に対して抱くようになる。」
・『鼻』において,失墜した禅智内供の権威は再生しない。
聖なる存在として川の向こう側にいる人として認識されていた内供が,
「鼻」にこだわる俗人であり,法衣を身にまとった俗人だと人に知れたため,
むしろ軽蔑の対象となる。「鼻」は元にもどっても,寺の「秩序」は復興しない。

『今昔物語集』の形式 説話本文+話末詞書
  「思い惑う愉悦」については,以下の小稿を参照のこと。
   see:(1)「今昔物語集」(『説話の講座4「説話集の世界」』 勉誠社)
     (2)「『今昔物語集』本朝仏法部の闇」(『仏教文学の構想』 新典社)
     (3) 「今を寿ぐ−−霊異記と三宝絵に内在する矛盾−−」
                      (九州帝京短期大学紀要9)
      (4)「思惑を誘う説話集--世俗部から見た今昔物語集の可能性--」(中世文学44)
『今昔物語集』の特質について(仲井論の基本) → 仲井のPROFILEへ
  今昔物語集は,本朝仏教文学史上初めてデカルト的な懐疑を核にして成立。
  今昔物語集に描かれた人間とは,「神の摂理に組み込まれた人間」ではなく,
  光と闇を内包し善悪の境界線上を彷徨い漂う存在である。
  霊異記のように善と悪が峻別されることはない。
  生きることを肯定したとき,善と悪とは絶対的なものではなく相対的なものと認識される。
  話末詞書を導く「コレヲ思フニ」という言辞は,
 『今昔物語集』が仏教をも思惟する対象とすることに躊躇しなかったことを表している。
 参考
  デカルトは,「神の摂理に組み込まれた人間」を否定し,
  自主的にものを考え疑う能力こそが「私」というものの核心だと主張。
 
芥川龍之介の歴史小説--平安朝シリーズ--
芥川龍之介の歴史小説は,森鴎外の影響の下に執筆された。
しかし,鴎外の「歴史其侭レキシソノママ」の志向に対して,
むしろ<歴史離れ>の手法で書かれている。
・『澄江堂雑記』30「昔」
「或テエマ」を捉えてそれを小説に書く場合,
「そのテエマを芸術的に最も力強く表現するためには,或異常な事件が必要になる」。
不自然の感じを起こさせないために「昔」から材料を採り,舞台を「昔」に求める。
・三好行雄『芥川龍之介論』
 「芥川龍之介の<歴史>は作者の肉声を遮断するフィルターであり,
異常な事件の起こるにふさわしい過去にまで読者を連れ出す仮装」
なのであり,歴史を忠実に振り返るためのものではない。
「老婆」について
原点の「媼」は,その主人が亡くなったあと,その死骸を羅生門に「置き奉たる」が,
その髪の美しさに魅せられて「鬘にせむとて」抜いている。
『羅生門』では,老婆は,生きるための術として「悪」を承知のうえで髪を抜いている。
芥川龍之介は,登場する人物に心理の陰影を与えている。

[芥川龍之介における善悪の観念]

唐木順三『芥川龍之介論』(日本文学研究資料叢書芥川龍之介2 有精堂)

芥川龍之介書簡井川恭宛大正3年1月21日
自分には善と悪とが相反的にならず相関的になっているような気がする
性癖と教育の為なるべし ロジカルに考えられない程能力の弱き為にてもあるべし
とにかく矛盾せる二つのものが自分にとりて同じ誘惑力を有する也
善を愛せばこそ悪も愛し得るような気がする也
ボードレールの散文詩をよんで最もなつかしきは悪の賛美にあらず
彼の善に対する憧憬なり
遠慮なくいえば善悪一如のものを自分は見ているような気がする也
(気がするというは謙辞なるやもしれず)
これが現前せずば芸術を語る資格なき人のような気がするなり
同じ故郷より来りし二人の名を善悪というなり 名づけしは其故郷を知らざる人々なり
(以下略)

恒藤恭(井川)『文芸春秋』昭和2年9月芥川龍之介追悼号
 争闘があればこそ,勝利はありえる。争闘を経ない勝利はない。これは自明の理である。
善と悪とは永久に争闘の運命を負わされている。
悪の征服において善が成り立ち,善に対する反抗において悪が成り立つ。
悪がなければ善もない。
それが此の世の掟である。悪の征服の後にくる平和は美しい。
けれども,現実の世界は,争闘なくして平和に至る途を保証せぬ。
この争闘は最も多様な形態において行われる。が,芥川はこの争闘をいとはしとした。
だから,彼の眼には,善も亦暗い陰影を帯びて映りすぎた。
『しかも悪も,悪との争闘も,共に人生の必要に属する。
しからば,すでに悪との争闘を善と名づけるとき,何故に悪そのものをも善とよびえないか。
否,一方において悪を悪とよぶ者が,何故に善をも悪とよばないか。』
彼はかかる論理にあくまでも執着した。どこまでも,何処までもそれにこだわった。
(中略)その思想的生涯を一貫して彼の抱いたところの『道徳に対する懐疑心』は,
彼の感情と感覚とにかたく根ざすものであった。
しかも道徳的本能は彼において人一倍強かった。
この矛盾は,後半生を通じて,彼をいらだたせた。」

唐木順三『芥川龍之介論』より抜粋A
 「所謂生活力と言うものは,実は動物力の異名に過ぎない」とは,
「他人よりも見,愛し,且つ理解した」と自称する彼の最後に到達した結論であった。
我々は,彼をこの結論に導いた問題の萌芽を既に彼の最初期の
『羅生門』に於いて発見しうるであろう。
−−生は不合理の上に成り立っている,生を肯定するとき,
生きるための如何なる手段も罪悪も亦正当に肯定されなければならない。−−
生のかかる「理解」は,彼を必然的に生より「逃避」する道に追いやった。
不安な生を忘却し,不合理の生より眼を転ぜしむるものを一般に慰戯と名づけるならば,
『鼻』を最初とする技巧的な,ユウモラスな作品はこの慰戯を求むる心の上に成立したと
言い得るであろう。
 彼の作品にかけられたヴェイルを取り除き,その底を洗うならば,
人々はこの生の不合理−−慰戯−−不合理−−慰戯の一進一退の跡を見得るであろう。
が,この不断の反覆は彼をして最後に「氷のように澄み渡った,病的な神経の世界」へ導いた。
其処は不思議な静けさが支配している深淵である。
彼は,断崖に立って,展開するパノラマのような情景を心静かに観照したのであろう。
彼自身の一生が縦に順次に並べられている。社会が横に並べられている。
かつて技巧として,カリカチュアとして見られた諸々のものが,
その本性として,その事実として,死の如き静寂の中に自らを語っている。
人々は『或阿呆の一生』に於いて最もよくそれを理解するであろう。
注:「カリカチュア」風刺画。戯画。夏目漱石『三四郎』,芥川龍之介『歯車』。

唐木順三『芥川龍之介論』より抜粋B
生を肯定するとき善悪は相関的となり,生存の一系列の中に解消されてしまう。
しかも,生がその本性上現実を離れ得ないものである以上,
諸悪はまさに「人生そのもの」である。
唐木順三『芥川龍之介論』より抜粋C
生きるためには一切の罪悪が許されねばならない。
人々は『羅生門』に於いてそれを克明に感じ得るであろう。
生はただ「不断に悪を欲して不断に善を生ずるあの力の一部分」
と自称するメフィストと共にのみあり得る。悪魔がオサンナを歌い,
全世界が理性の光に隈無く照らされるときは生の壊滅するときである。
生はただ闇と共にのみ,闇を通して光を望むときにのみあり得るのである。
人々は『るしへる』(大正7年8月発表)に於いて,
それが論理的に展開されていることを知るであろう。

首藤基澄『「きりぎりす」から新解釈』朝日新聞1997/3/28(仲井が要約)
『羅生門』の問題:「下人の心理の推移を主題とし」「エゴイズムをあばいている」(吉田精一)
という通説をどう抜け出すか?
首藤基澄は,「蟋蟀」キリギリスをキーワードにした論の展開を図る。 
「蟋蟀」は,「こおろぎ」ではなく,「きりぎりす」である。
「蟋蟀」がいなくなって「老婆」が登場。下人を「新しい生」へ飛躍させる
(see:海老井英次「芥川龍之介攷」)。
芥川龍之介が青年時代に最も感動した本に,ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」がある。
大正4年,芥川龍之介が吉田弥生への愛を家族の反対によって断念したとき
芥川龍之介は自分の「曙」を自覚した。
「それは曙でも『寂しい曙』」(山本喜誉司宛書簡)であったが,
この「曙」は『ジャン・クリストフ』第1巻「曙」になぞらえたものでった。 
『ジャン・クリストフ』第1巻「曙」は,
8歳の幼少期に音楽家として第一歩を踏み出す天才音楽家の出現を描き,
それはベートーベンなどのヨーロッパ芸術の高峰と連なっている。
日本では近代的な芸術はまだ少なく「山脈という連鎖」のない孤独を強いられていた。
芥川龍之介の「寂しい曙」はそこに起因している。
『ジャン・クリストフ』は,小説家芥川龍之介の出発に決定的な影響を与えたわけだが,
その影響を追究した論考はまだない。
『ジャン・クリストフ』第1巻「曙」の中心は,
行商人で家族の者にまで馬鹿にされている叔父ゴットフリートが,
クリストフに真の音楽について悟らせる場面である。
河波が音をたて,「蟋蟀」が鳴く自然のまっただ中で,
クリストフはゴットフリートの今まで聞いたことのない「深い心」の歌を聴き,
音楽の核心に目覚める。
『ジャン・クリストフ』の日本語訳は,
大正三年六月に三浦関造訳『ジャン・クリストフ 闇を破って』が警醒社書店から刊行。
「蟋蟀」は「きりぎりす」とルビがふされている。
「蟋蟀」の鳴くところでゴットフリートに真の音楽を示教されるクリストフと,
荒廃した羅生門に「きりぎりす」を点描した後で老婆が登場,
「仕方がない」生の論理を展開して下人を行動者へと誘う「羅生門」は,
その構造に於いて同一である。
下人は「きりぎりす」が姿を見せるような羅生門で,老婆に飢え死にをしないためには,
人を偽り,引き剥ぎをしてもかまわないという「仕方がない」生の論理を悟らされる。
「仕方がない」,日本人がこういうとき,決して事態は一様ではない。
ある場合には浅いニヒリズム・諦念となり,
ある場合にはモラル・規範を超える行為のバネとなる。
下人はここで,モラル・規範を超えてでも生きることに賭けたと見ていい。
「羅生門」は,エゴイズムをあばいたのではなく,
「仕方がない」生そのものを造形した小説である。
『ジャン・クリストフ』の「曙」(蟋蟀)に導かれ,
野性的な美の「今昔物語」を現代風に料理した芥川の世界は,
単に新理知派といってすませられない「仕方がない」生を強いる
日本の風土を摘出照射しているのである。



時代を考えるための史料

[夏目漱石『それから』明治43(1909)年発表]
日本程借金を拵(こし)らへて,貧乏震ひをしてゐる国はありゃしない。
此借金が君,いつになったら返せると思ふか,そりゃ外債位は返せるだらう。
けれども,それ許りが借金ぢゃありゃしない。
日本は西洋から借金でもしなければ,到底立ち行かない国だ。
それでいゐて,一等国を任じてゐる。さうして,無理にも一等国の仲間入をしやうとする。
だから,あらゆる方面に向かって,奥行を削って,一等国丈の間口を張っちまった。
なまじい張れるから,なほ悲惨なものだ。
牛と競争する蛙と同じ事で,もう君,腹が裂けるよ。
其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。
斯(こ)う西洋の圧迫を受けてゐる国民は,頭に余裕がないから,碌な仕事はできない。
悉く切り詰めた教育で,さうして目の廻る程こき使はれるから,揃って神経衰弱になっちまう。

大正3年(1914)8月初旬,
元老の山県有朋や首相の大隈重信に,
以下のことば伝えられた。

【世外井上公伝】
一,今回欧州ノ大禍乱ハ,日本国運ノ発展ニ対スル大正新時代の天佑ニシテ,
日本国ハ直ニ挙国一致ノ団結ヲ以テ,此天佑を享受セザルベカラズ。
二,此天佑ヲ全ウセンガ為ニ,
内ニ於テハ此年囂々(ごうごう)タリシ廃滅税等ノ党論ヲ中止シ,
財政ノ基礎ヲ強固ニシ,一切ノ党争ヲ排シ,国論ヲ世界ノ大勢ニ随伴セシムル様指導シ,
以テ外交ノ方針ヲ確立セザルベカラズ。
三,此戦局ト共ニ,英・仏・露ノ団結一致ハ更ニ強固ニナルト共ニ,
日本ハ右三国ト一致団結シテ,茲(ここ)ニ東洋ニ対スル日本ノ利権ヲ確立セザルベカラズ。
……大正新政ノ発展ハ,此世界的大禍乱ノ時局ニ決シ,
欧米強国ト駢(へい)行(こう)提携シ,
世界的問題ヨリ日本ヲ度外視スルコト能ハザラシムルノ基礎ヲ確立シ,
以テ近年動(やや)モスレバ日本ヲ孤立セシメントスル欧米ノ趨勢ヲ,
根底ヨリ一掃セシメザルベカラズ。 

第一次世界大戦後の[戦争の世紀]を,芥川龍之介は生きていました。
芥川は,戦争をどのように考えていたのでしょうか?

1918年10月21日小島政二郎宛芥川龍之介書簡
海軍機関学校は,「此天佑」の影響を受けて,1919年度から生徒数を3倍にしようとしていた。
そこの嘱託教授を務めていた芥川竜之介は,作家活動道の両立という問題もあって悩んでいた。
「どう考えても僕の機関学校へ就職した理由と海軍拡張とは根本において相容れそうもない」


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