監修 仲井克己
以下の伝承について、情報をお寄せください
報告 佐藤博樹
将門が活躍した時の天皇は朱雀帝。
「笠森の娘」は朱雀天皇の后に迎えられました。
頼朝伝承は、2つのルートがあった?
(1) 姉崎神社―島穴神社―大宮神社[五井]
(2) 牛久から茂原へ
最澄よりも、伝承の世界では広く流布!
★札所本尊=十一面観世音菩薩
(最澄は、山中に光を放つ観音像を見つけた。
室町時代の仏師慶賛が
建築様式は日本唯一の「四方懸造」
「坂東三十三観音札所」の第三十一番札所
本堂の片隅にある「参籠の間」は、
〒297-0125 千葉県長生郡長南町笠森302
第三十一番 大悲山楠光院 笠森寺(笠森観音)
天台宗・別格大本山笠森寺
延暦3年(784)伝教大師 最澄が
楠の霊木で観音菩薩像を刻み霊巌の上に安置
その仏像を、自ら彫った十一面観音の腹中に納めた)
応永十三年(1406)彫造した
との墨書が背面腰部にある。
霊巌の上に建てられた舞台造りの観音堂
長元元年(1028)、後一條天皇の勅願により建立
棟梁は、飛騨の工匠 一条康頼 と 堀川友成
このとき、比叡山延暦寺良源の法弟である
解超大僧都が大導師を勤めた。
現在の観音堂は、桃山時代の再建。
明治41年(1908)「国宝」に認定
昭和25年(1950)「国指定重要文化財」に認定
周辺の山々は「県立笠森鶴舞自然公園」に指定
法難を受けた日蓮上人が
三七日間(21日間)籠ったところ。
最初の信徒となった墨田五郎時光との対面は、
ここでおこなわれた。
日蓮の詠んだ歌
うきにふる 涙の雨に ぬれじとて
けふ(今日)かさもりを みにきけるかな
小湊鉄道
上総牛久駅 〜 小湊バス茂原行き(笠森観音下車)
参考:「ふるさとの文化遺産 郷土資料事典12 千葉県」1997・3 笠森観音の立っている山の名前 : 朝立山 正式の名前 : 大悲山楠光院 笠森寺 伝教大師が、自ら楠木で十一面観音菩薩像を彫った。 永延年間(987〜989)に、出家した花山天皇が参詣したといわれている。 花山天皇の歌。 日は暮るる 雨はふるのの 道すがら かかる旅路を たのむ笠森 花山天皇の愛妻は、子供を身ごもって死亡。 当時、このような死は、 [前世に尋常ではない罪を作ったから] とされていたため、 花山天皇の苦悩は尋常ではなかった。 そのため、天皇の位についたまま出家をとげた。 四方懸造:桁行5間,梁間4間。 61本の柱で支えられている。 屋根:寄棟造り,銅板拭き, 周囲の平坦地から棟の最上部まで30mあまり。 床までが、16m。 木造十一面観音立像については、 墨書名では、応永33年(1426)仏師慶賛法眼の造像。 国指定重要文化財:鋳銅唐草文釣燈籠 県指定重要文化財:鋳銅孔雀文磬クジャクモンケイ(応永33年大工国安) 鋳銅鰐口(応永34年 同 ) 木造不動明王立像(鎌倉末期) 鋳銅観世音菩薩立像(鎌倉期) この観音菩薩は、明治41年に境内の楠木を伐採したときに 木芯から発見されたものであり、「楠光観音」と称される。 付近の森は、延暦年間の開基当時から 伐採を禁じられている。
現在の観音堂は、
桃山時代に建てられました。
その間、いくども大規模な修復作業
があったはずです。
清澄山では、修復のための木を育てるための
森を持っているほどです。
このような修復作業は、
誰の手によってされたのでしょうか?
実際に作業をしたのは
平安の都の入り口である羅城門を造った
飛騨の匠たちであったとしても、
山伏たちの存在も大きかったのではないでしょうか?
観音堂と山伏との関係は、今後の課題と言えます
[長柄郡――(下の画像)――(尾根伝いの道)―― 笠森 ―― 大場の四天王峠道 ――
―― 市場(道しるべの石標あり)―― 養老川 ――市原の国府]
昔の街道は、田や畑の真ん中を貫くということはほとんどありません。
不思議に思うことですが、たとえば九州の旧道を歩いてみると、
長柄から笠森観音へ通じる古道も、まさにそのような道でした。
人々が草鞋で歩いた道の幅は、おおよそ一間幅(約181cm)。
もちろん、舗装はおろか街灯もない 草の生えた道 です。
このような道を 草鞋で歩くということは、
舗装道を靴で歩くことに慣れた現代人には
想像を絶することであったに違いありません。
田や畑の端っこの、山に近いあたりを
うねうねと曲がりくねりながら、続いています。
この点も現代とは違います。
ときどき峠を越えていく道に出くわします。
これは、わらじでは、谷底の道が歩けなかったからだと考えられます。
じめじめと湿っていて、
時には蛇や百足(むかで)の跋扈(ばっこ)するようなところを避けて
わざわざ急な斜面に「切り通し」を設けて、
尾根づたいの道を作ることもありました。
「切り通し」とは、そびえ立つ崖を切り崩して、
その部分のみゆるやかな坂にして道を設けることです。
崖の上を歩くこの道は、
商品流通の道であるとともに、
情報の行き交う道でもありました。
平将門の乱
平忠常の乱
さらに
源頼朝が、千葉一族の援護を受けて、上総から下総へ向かったといった情報も、
この道の上を通り過ぎたはずです。
村のはずれから切り通しの坂に踏み込み峠を辿っていくと、
笠森観音の仁王門に出ます。
崖の上にあるこの道は 実に危うく
風が強い夜などは、吹き飛ばされて行方不明となり
「天狗にさらわれた!!」
と大騒ぎになったこともあったのではないでしょうか?
おそらく、笠森寺にも、天狗にまつわる信仰や伝承があったはずです。
天狗の信仰は、
山々を巡る天台系の修験道
と密接に結びついていたと考えられます。
この天狗に関する信仰は、
妙見信仰 や 海の修験道 とも深く関わっていたはずです。
ちなみに、房総の人は切り立った尾根伝いの道が好きだったようで、
市原市市民の森には
まるで恐竜の尻尾から背中に登っていくような
きわどい道があります。
途中に矢倉に似た穴が 掘ってあります。
このことから、昔から使われていた山道だったのはないかと思われます。

笠森観音堂には、芭蕉の詠んだ句が石碑に刻まれています。
松尾芭蕉は、五月雨の中をお詣りに来たといわれています五月雨や この笠森を さしもぐさ 芭蕉
平成の世に、翁に和して
五月雨を 両手に受けて 南無観世音 博樹
今日の日の 雨よ風よ 南無千年の彼方へも 克己
芭蕉の句は、 「五月雨のそぼふる中を通りかかった娘が、
自分が濡れるにもかかわらず観音様に笠をさしあげた」
という故事を踏まえています。
千葉県の笠森観音にまつわる伝承 参考:鈴木仲秋「笠森寺」日本伝奇伝説大事典(角川書店)昭和61年10月 笠森寺縁起は2系統存在する。 天慶年間(938〜947)に、 上総国の国司に玉前明神の神託があり、 府中市原で田植祭を催すことになりました。 そのとき 村一番の美しい娘を選び、 早乙女(田植えをする少女)の支度をさせて、 五月十二日に府中に集まるように というお触れが、上総の国中に出ました。 これは、そのときのお話です。 資料:松谷みよ子「笠森のおとめ」,坪田譲治編『日本の伝説 東日本編』偕成社文庫3067,1978・7 (一部改変) ふしぎなおふれが、上総の国(千葉県)をまわっていました。 「村むらの、うつくしいむすめたちをえらびだして、 さおとめ(田植えをする少女)のしたくをさせ、 五月十二日、府中にあつまるように」 というのです。 村むらの百姓たちは、 いったい、なにごとがはじまるのだろうとふしぎに思いながら、 あのむすめがいい、いや、このむすめがいいと、 にぎやかにうわさしあいました。 しかし、ここ、長生郡の長柄村(獅子ヶ瀬)では、みんなが、声をそろえて、 「それなら、箕づくりのじいさまのむすめがいい。」 「そうだ、あのむすめをおいて、ほかにはいない。」 と、いいあっておりました。 【注:名前を「於茂利」(おもり?)】 村はずれの、箕づくりのじいさまの家では、 うわさも知らずに、ひとりのうつくしいむすめが、 琴をひいておりました。ながくのびた黒髪も、白い指さきも、 いっしんに琴をひく顔も, あたりまえのむすめとは思われないけだかさです。 都からとおくはなれた、このあたりの箕づくりのむすめとは、 どうしても信じられないほどのうつくしさが、あふれていました。 やがて、さだめられた十二日の日がきました 質へまいるようにといわれて、 むすめは、なんのためかしらと、ふしぎに思いましたが、 役人からのおふれとあっては、ことわるわけにいきません。 さおとめのしたくもかいがいしく、かさをかぶって家をでました。 朝から雨もよいの日でしたが、 いくらもいかないうちに、しとしとと雨になって、 みどりの上総の村むらを、霧のようにけぶらせました。 ふと、むすめは、足をとめました。 尾野上の観音堂は雨漏りがして、観音さまのお像が、雨にぬれそぼって立っていたのです。 「まあ、こんなに雨に濡れて、おかぜをひかれましょうに、 かさををかけなさいまし」 むすめは、思わずそういうと、かさをとり、観音さまのお像にかけました。 そして、手をあわせると、そのまま、雨のなかをいそいでいきました。 府中についてみると、村むらのむすめは、みな、さおとめのしたくであつまり、 なにごとかと、ささやきあっております。 ひろびろとした田の正面には、みすをさげた小屋がつくられ、 香(こう)のかおりがただよって、ただのありさまとは思えません。 やがて、たいこがなりひびき、さおとめたちは、役人のさしずで、田にならんで、 うたごえもにぎやかに、田植えをはじめました。 雨が、ますますふりしきってきます。 そろいのかさが雨をさけてうごくなかに、 箕づくりのむすめだけが、たったひとり、かさもなくて、雨にぬれながら、 田植えをつづけておりました。 黒髪も、うつくしい顔も、みるみる、びしょぬれになっていきました。 しかし、むすめは、ふこうともせず、ただいっしんに、苗をとっては植えつづけました。 そのありさまを、小屋のみすのなかから、じっと見つめている都人がありました。 遠目ながら、ときどき、ちらとふりあおぐむすめの顔の、ひかるようなうつくしさに、 「あのたったひとり、かさをかぶっておらぬむすめを、これへ。」 と役人をかえりみました。 めしだされて、やがて、みすの前へ手をつかえたむすめを、まぢかに見て、 都人は、あっと声をもらしました。 「姫そっくりじや!」 都人は、おどろきをおさえてたずねました。 「これ、むすめよ。 こんなに雨がふりしきるのに、 なぜ、そなたは、かさをかぶらないのか。」 「はい。」 むすめは、思いがけない問いに顔をあからめながら、 観音さまにかさをおかけしてきたことを、つつまずもうしあげました。 「そうか、やさしいこころがけじゃ。 じつは、よびだしたのはほかでもない、 そなたに、都へのぼってもらいたいからじゃ。」 「え、わたしを都へ……」 「そうじや。というのは……」 みかど す ぎくてんのう そのころ、ときの帝(みかど)、朱雀天皇(すじゃくてんのう)は、おきさきをうしなわれ、かなしみにくれていました。 そこで、都人は、なくなられたおきさきと うりふたつのおとめをさがしだし、 帝(みかど)にたてまつろうと、はるばる、この地までもくだってきたというのです。 「いま、ちかく見るそなたのみめかたち、おきさきにうりふたつ、 と、はっきりもうせるのは 、わたしこそ、きさきの父、嵯峨(さが)の中将(ちゅうじょう)なのじゃ。」 むすめは、じっと手をつかえてきいておりましたが、しずかに顔をあげました。 「はい、いまとなっては、つつまずもうしあげます。 わたくしの父は、むかし、はるばると、 上総の国守としておくだりなされました、 冷泉天皇(れいぜいてんのう)の皇子(みこ)にあたり、 名まえを、五条の宮(ごじょうのみや)ともうしました。 母は、そのとき、おそばちかくおつかえいたしましたもので、 少将(しょうしょう)の君(きみ)と、 名をたまわったとかもうします。 都よりきゅうなお使いで、父ぎみが都へもどられましてから、 わたくしは母をうしない、 やがて、風のたよりに、父ぎみもなくなられたときき、 それから、母の兄にあたる箕づくりのじいの手もとで、 大きくなったのでございます。」 「なんという、それでは、そなたは、なくなられた五条の宮の姫ぎみか……」 嵯峨の中将はじめ、役人のおどろきはいうまでもありません。 すぐにしたくをととのえ、姫君をこしにのせて、都へいそぎました。 帝は、姫ぎみをひと目ごらんになると、 まえのおきさきの生まれかわりだ といっておどろかれ、かなしみもきえて、ふたたび、宮中に春がめぐってきたのでした。 帝は、あたらしいきさきをたいへんかわいがって、 なんなりと、のぞみをかなえさせてあげようといわれると、 おきさきは、 「上総の国におりましたとき、観音さまのお像が、お堂もこわれて、 雨にうたれるままになっておりましたが、 そのおすがたが、いまだに心にかかってなりません。 どうか、お堂をたてることをおゆるしくださいませ。」 と、もうされ、 やがて、りっばなお寺がたてられました。 それは、いまなお、笠森寺とよばれて、線香や花のたえるときがなく、 やさしくもうつくしい、いいつたえをしのばせています。
次のような伝承もあります。 [参考:鈴木仲秋「笠森寺」『日本伝奇伝説大事典』] 冷泉天皇の皇子五条宮が上総国太守に任じられた。 宮に同行した蔵人清光の妹少将の君との間に姫が生まれた。 五条宮は、京都に帰る。 姫は、上総に残る。 姫は、笠森観音を信仰し、父である五条宮に会えるように祈る。 後一条天皇の女御が亡くなり、悲嘆にくれる帝を慰めるために 諸国に伝えて美人を募らせた。 姫は、早乙女として府中に行く途中に、 雨にうたれている観音菩薩に 自分の笠をかぶせる。 姫が選ばれて、都にのぼる。 姫は、桐壺の女御となった。 これも十一面観音のおかげである。
千葉県長生郡長南町[笠森観音]とよく似た伝承を持つ観音霊験譚を紹介します。
名古屋の 笠寺観音 にまつわる伝承 愛知県名古屋市南区笠寺町 笠寺観音
笠森寺と笠寺の共通項
天皇勅願・十一面観音・雨に濡れた観音様に娘が笠を懸ける
京都に行く・貴種と結婚する・観音に帰依・寺を建立
芭蕉が句を詠む
天林山笠覆寺(りゅうふくじ)
明治時代末期の熱田〜笠寺
真夜中に月の光を浴びながら笠寺周辺を歩くと
台地と海との関係などを感じることができます。
本尊:十一面観音菩薩像 (尾張四観音のひとつ) 芭蕉の句「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」 次のような縁起が残っています。 参考文献: (1) 「笠寺観音」日本伝説大系7巻中部 (みずうみ書房,昭和57年9月) (2) 磯部月子「笠寺」(『日本伝奇伝説大事典』角川書店) (3) 『続群書類従』27下巻 (4) 『名古屋市史』社寺編 (5) 東海道名所図会 * 若狭椽『笠寺観音御縁起』 天満八太夫『笠寺観音之御本地』 伊勢湾の信仰と交通について (1)海と列島文化第8巻『伊勢と熊野の海』1992年1月、小学館 今は昔、 聖武天皇が奈良の都で東大寺を建立する少し前の天平年間頃、 伊勢の海は、まだ呼続町附近まで浪がうち寄せていました。 あるとき、呼続の浦に、1本の浮き木が流れ着きました。 毎夜不思議な光を放ち、 その光を見た人は、みんな疫病にかかってしまいました。 そのころ、近くに禅光(善光)という僧が住んでいました。 呼続の浦に浮いている木は、 桂旦国預山の霊木であり、 この木で十一面観音を造れば、 人々は安穏に暮らすことができるであろう という夢を見ました。さっそく、禅光上人は、 その浮き木で十一面観音像を刻み、 お堂を造り、 天林山小松寺と名を付けられました。 この寺は、繁昌の霊地となりました。 約200年後、 小松寺は朽ち果て、 十一面観音像は、 雨ざらしのまま野原の真ん中に 立っていました。 鳴海の長者太郎成高の侍女が 雨露に濡れたままになっている お地蔵さまを哀れに思い、 自分の笠をかぶせてあげました。 都から東国へ下向の途中にあった 昭宣公の嫡男兼平朝臣が、 雨の中で笠もかぶらずに お祈りをしている女を見つけ、妻としました。 兼平朝臣は、妻の願いを聞き入れて、 天皇に奏聞しました。 延長8年(930)、かの地に寺を復興して、 仏像を安置し笠寺と号するようになった とのことです。
江戸時代の笠寺境内
街道の賑わいが境内に活気を与えています。
笠寺の台地からは,東海の海が見えたはず。次のような異伝もある。 (観音菩薩が荒野にたたずんでいる) ある日、五月雨のそぼふる日に、 美しい娘が観音様の前を通りかかりました。 この娘の名前は、玉照。 美濃の国の流人、 右京前司美濃守重満の息女でしたが、 一家離散の末、 鳴海長者太郎成高に仕え、 奴隷同様に酷使されていたのでありました。 雨が激しく降る中を、 笠を伏せて道を急ぐ玉照は、 川端柳の下で雨に濡れて立っている 観音様に気がつきました。 心のやさしい玉照は、 自分の笠を観音様にかぶせてあげました。 じつは、その笠は、 玉照のものではありませんでした。 玉照は、雨が降っても笠も与えられずに 使いに出されるのが常でした。 今日は、途中で玉照を不憫に思った人が 与えてくれた情けの笠だったのです。 玉照は、今は辻仏にまでなりさがった 観音様に笠をかぶせ、 自分はずぶ濡れになって、 鳴海の長者屋敷へ帰りました。
それから間もないある日のこと、 鳴海の長者屋敷へ、 関白藤原基経の三男、 兼平中将が泊まりました。 兼平中将は、玉照を垣間見て 、すっかり心を奪われてしまい、 京都へ連れて帰りました。 その後、玉照は、 兼平中将の正妻になりました。 玉照は、 その後も辻に立ったままになっている 観音様を忘れることなく、 醍醐天皇の延長8年(930年頃)、 天皇に奏聞し、 中将とともに下向して、 観音様のために立派なお寺を建てました。 そして、天皇の勅許を得て、 この寺の名前を笠覆寺と名付け、 寺領百町歩を寄進しました。 この寺が、今の笠寺です。 玉照姫を祀った小堂は、 笠寺観音本堂の西側に建っていたが、 明治22年に同寺の一坊である 泉増院境内に移築された。 泉増寺は、笠寺観音の前にある寺である。
1里塚
ここを過ぎると笠寺へ
観音塚 由来 名古屋 笠寺観音 霊験譚 類話(1) 名古屋市南区柏畠町3観音の塚は、笠寺観音の旧址である。 元観音、とも言われる。 平安時代、延喜の頃、 左大臣藤原時平の弟で 宮内卿兼平がこの地を訪れた。 一人の娘(玉照姫)が、 風雨にさらされたままで立っている観音様に 笠をさしあげているのを見て、感動した。 京都に連れ帰り、妻にした。 延長8年に勅許を得て、 笠覆寺をこの地に創建。 この地が、現在の観音塚である。 現在、榎木の大樹のもとに小堂が建てられ、 加藤又兵衛勝貞が寄進した石碑と石像 の観音座像が安置されている。
名古屋 笠寺観音 霊験譚 類話(2)
岐阜県加茂郡八百津町久田見
(『八百津町史』資料編)久田見に、長者屋敷と呼ばれる山深い里がある。 ある日、長雨のために山崩れがあって、 その家が滅びてしまった。 生き残ったのは、娘一人。 娘は、父や母の菩提を弔うために、 観音堂を建てようと旅に出た。 娘は、「濃州屋敷」と筆太に記した笠をかぶり、 観音様を背負って、 東海道を東に坂を下っていく。 名古屋を過ぎた頃に、娘は病気になった。 村人が手厚く看病したにもかかわらず、娘はその地で病没した。 娘の遺言は、観音様と笠とを本尊に この地にお堂を建てて欲しいとのことであった。 村人たちは、娘の遺言のとおりに 堂を建てて、観音様をお祀りした。 それが、今の笠寺観音である。
星崎の宮
名古屋市南区星崎町 祭神:天津星神(天の星の神) 香香背男神 怪しい光を発する神が、星の宮乃祭神であった。 将門調伏の勅命によって熱田神宮から神輿(みこし)が出ると 七星が輝き池の中に輝いた。 その地を、「七面池」と称するようになった。 → 尾張名所図会 海岸近くに建っていて、社前を通る船は、帆を下げた 境内には、八曜の紋を入れた燈籠が寄進されている 北斗七星の紋もある? 星崎庄本地村には、将門調伏のために出御した神輿を迎えた塚がある。 → 御輿塚 (上知我麻神社・下知我麻神社) 【海の信仰:北斗七星・妙見信仰・船霊様など】
東海道名所図会所収 笠寺由来譚
名古屋市南区笠寺町
(愛知郡笠寺村)
本尊十一面観音、開基善光上人作、長六尺 境内に、薬師堂・護摩道・地蔵堂・祖師堂・多宝塔・鎮守白山祠・池中に弁天祠あり。 寺記云、 当山昔聖武帝の御宇、善光上人霊木感得し給ひ、熱田明神の神勅を得て、 此本尊を彫刻し給ひ、初は小松寺と号し勅願所なり、 然るに、星霜累りて、中古兵火の為に諸堂滅び、 霊像は空しく曠野に残りて道路の涯に立給ふ、 ここに鳴海の長者が侍女に美艶の者あり、 殊に大悲を尊信して、ここに歩を運ぶ事数月なり、 ある時一村雨来りて霊像忽雨水に浸す、 かの侍女、これを悲しみ、みづから被く菅の笠を着せまいらせけり、 其頃都より昭宣公の嫡男中将兼平卿、吾妻の方に下向し給ふ時、 かの女道の傍に笠もなく面相あらはに美しく見へけるを、 見初給ひ、鳴海の長に乞ふて都へ召つれ帰り給う、 程もなく妊娠となり、遂に御簾中と成給ふ、 其後此地に下り、伽藍を営み尊像を安置し給ふ、 此時は醍醐帝の御宇延長八年(930)の比とかや、 此由縁によつて、本尊は今に於て笠を被き給ふ故、世人笠寺といふ。
その他の伝承(1)
隕石を祀る!
呼続社 南区星崎一丁目 祭神は、 天照皇大神・国常立尊・邇邇杵尊。 塩田の東側に築かれ堰が切れたため 伊勢神宮より勧請。 塩竃社は、元文2年(1737)勧請。 塩土老翁が祀られている。 寛永9年(1632)南野村(星崎)の村瀬六兵衛の塩谷に落ちた 隕石が当社に寄進され社宝になっている。
その他の伝承(2)
笠寺の翁塚(芭蕉)
享保14年(1729)に建立。 星崎の闇を見よとや 啼く千鳥 芭蕉その他の伝承(3)
白毫寺の芭蕉の句
白毫寺は、熱田円通寺の末寺。 熱田と船で往来。 春風や 戸部山崎のやねのこけ 芭蕉
その他の伝承(4)
地蔵院の湯浴地蔵
呼続町4丁目の地蔵院 湯浴地蔵尊として信仰される鋳鉄地蔵がある。 鎌倉時代前期、 井戸田村の海中よりひろいあげた仏像を湯で洗った。 慶長(1596−1615)年間に、山崎村に移築。 周辺の地には、「新田」の名前がつくことから、 江戸時代に笠寺から西の地域が埋め立てられたことがわかる。 また、地図を見ても、埋め立て地であることが歴然としている。 (伊勢湾台風で水没した地域は、海であった)
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