office NAKAI

歩いて考える平家伝承T
[柳川市・山川町・高田町・筑後市]

TOP [nakaiHP] に戻る

→ 歩いて考える平家伝承U

→ 歩いて考える平家伝承V


筑後平野には、平家落人伝承が多く残っています。

1999年8月4日
生涯学習振興財団公開講座
「平家落人伝承」
仲井克己

今回の講演資料を制作するにあたり、以下の方々の協力を得ました。
★山川町
 山川町教育委員会
 〒835-01 福岡県山門郡山川町大字原町378-1 0944-67-0437
  源平最後の決戦場所となった山川町要川に記念公園が建設されました。
  山門郡山川町大字甲田 JRバス中原下車徒歩2分
  瀬高駅からJRバス山鹿行25分。
  尚、要川公園付近は旧街道が保存されています。
  白秋が南関の外目から柳川に帰るときに通った道です。
 (「物見塚」:平家武将が陣頭指揮をとった場所)から「要川公園」に至る道は、
  昔の面影が残っています。
  山川町教育委員会では、今後平家関係の資料の蒐集・遺跡の発掘を精力的にしています。
  また、平成版筑前琵琶「山川町平家残照」(仮題)も制作予定とのことです。
★柳川市
  竹井徹氏(吉富町 多福寺)
  「六騎」を一緒に歩いていただき、多くのご教示を賜りました。

*****
講座の内容
<資料編>
平家一族の祈り<六道巡り><地蔵・観音信仰>
 『平家物語』の巻頭と巻末
平家一族の祈り<神に対する祈り><伊勢大神宮>
  『平家物語』壇ノ浦の合戦
 『義経記』--滅びの美学--
柳川「六騎」由来伝説
 大神宮創建由来伝説
山川町の平家伝説
 「平」の「坂梨」一族
 「七霊宮」由来伝説(桜峠)
 「谷軒」の地蔵尊
筑後市の平家伝説
水天宮
 平家追悼の宮
<総論>
平家一族の栄枯盛衰--九州に於ける平家の足跡--
平家主要人物紹介
・平家の歴史概要
・平家興亡の歴史
<補論>
・柳川の平家伝説と北原白秋
・九州の平家伝説

基本参考文献
a.『筑後市史』筑後市1997/9/1(第一巻「中世」松崎英一 P.394)
b.『社会科教科書 郷土資料調査解説』第九編社寺 柳川、山門、三池教育委員会    昭和42年9月 永井新
c.『柳川史略』堤伝 柳川郷土クラブ(P.56に「六騎」解説)
d.『高田町誌』龍富太郎・永井新編1958.10
e.『民話と伝承』西山吉之助 高田町教育委員会1993.7
f.『山川町遺・史蹟めぐり』山川町郷土史会編1985
g.『田尻郷土史』奥園二1997.2
h.『日本伝説大系』みずうみ書房
I.『日本伝奇伝説大事典』角川書店
J.『平家物語全註釈』角川書店(索引がついています)
K.『平家後抄』角田文衛 朝日新聞社
L.『福岡県の歴史』川添昭二監修 光文館平成2年8月
M.『三瀦町史』三瀦町史編纂委員会 昭和60/9
N.三瀦町史別冊『中世の豪族三瀦氏の歴史』三瀦町(三瀦氏の歴史編纂委員会)平成9年1月。
 平家の残党を掃討するために筑後国三瀦荘地頭に補任された和田義盛が文治五年1189に地頭職を停止された際、
三瀦左衛門尉は義盛の弟和田宗美に招致され越後国奥山荘の桂関の関吏に任命され、その血筋は現在まで続く。
筑後の国三瀦氏は戦国時代に絶っている。
O.『柳川の歴史と文化』甲木清 昭和60/10
P.朝日百科『日本の歴史』4中世1  朝日新聞社
Q.『観音・地蔵・不動』速見侑 講談社現代新書
R.インターネットのホームページ 東祖谷村
  http://www1.sphere.ne.jp/east-iya/index.html

*****資料編*****
[資料1」平家一族の祈り(仏教の祈り)
注:平家落人伝説は、仏教と神道の二系列から考える必要がある。
・「六道」をめぐる衆生の救済=菩薩 
 とくに、地蔵菩薩と観音菩薩が重要な意味を持つ。
注:平家滅亡の叙事詩『平家物語』は全巻の終わりに「六道の沙汰」(灌頂巻)を置く。
また、源義経滅亡の物語『義経記』も弁慶辞世の歌に「六道」を引く。

『平家物語』序段=巻頭の部分
  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
  沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。
  奢れる者久しからず、只春の夜の夢のごとし。
  猛き人も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
『平家物語』潅頂の巻(女院死去)=『平家物語』巻末の段冒頭部分
  さる程に寂光院の鐘の声、今日も暮れぬとうち知られ、夕陽セキヨウ西に傾けば、
(後白河法皇は)御名残ナゴリ惜しうはおぼしけれども、御涙をおさへて還御ならせ給ひけり。
女院(建礼門院)は今更いにしへをおぼしめし出でさせ給ひて、
忍びあへぬ御涙に、袖のしがらみせきあへさせ給はず(袖で涙をせきとめることもできない)。
      後白河法皇(1127-1192)−−高倉天皇(1161-1181)
                            ‖−−安徳天皇(1178-1185)
      平 清盛(1118-1181)   −−建礼門院(1155-1213?)
 建礼門院は、平家の興亡のすべてを見て、文治元年9月1185大原の寂光院に小さな庵室を結ぶ。
阿波の内侍ナイシが同行。文治二年四月1186、後白河法皇が女院のわび住まいを訪れ、
六道を巡る興亡を共に語る(「六道の沙汰」)。
平家が滅亡したのは文治元年三月二十四日1185のことであり、
一年後の春に後白河院が大原を訪れたことになる。
時代の中で「六道」を彷徨サマヨうという数奇な運命を辿った二人は、
寂光院の鐘の声を聞きこの世の最期の別れをする。
『平家物語』は、女性の眼が重要な役割を果たしている。
その中でも、建礼門院は、清盛の娘であり安徳天皇の母でもあったため、
物語の軸を構成する役割を果たしている。
御安室の様子:阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)。
左には普賢菩薩。右には、善導和尚(念仏往生を説いた浄土教の大成者)と安徳天皇の御影。
参考
・安徳天皇を祀る石像「現人神」:高田町「平」の山の中にある!
  注:道路拡張工事のため、場所が移動。
・山川町「谷軒」にお地蔵さまがお祀りされていることがわかった!
・山川町「谷軒」のお地蔵様は、十一面観音と共にお祀りされている
(ただし、十一面観音は新しい。古くから祀られていた観音像が代替わりしたものかどうか不明)。
・山川町の要川から、六地蔵が発掘された!
 柳川の石工に依頼し、上下を整備したうえでお祀り。天草の石で彫られている。年代などは調査中。
・柳川「六騎」の「耳塚」に地蔵尊がお祀りされている。
 「耳塚」という名前は、島原の乱に由来するということであるが、地蔵尊はもっと古い?
 難波家の墓の前にあることから、あるいは、もっと古くから祀られていた?
・柳川「六騎」には、観音様がお祀りされている。山門清水寺・京都清水寺と関係が深い?
 「六騎」の観音様は、山門清水寺・京都清水寺の観音像と「同木同作」と伝えられる。
・正応5年9月1292、南関町上長田字岡に沙門極楽の勧進による板碑が立てられる。
 (注:平家伝説とは直接関係なし。
 『平家物語』の主題となった「無常」観が南関に定着していた証として重要)
  「諸行無常是生滅法 生滅々已寂滅為楽」
 (注:涅槃経の偈。イロハ歌のもとになった言葉)see:『南関町史』P.72

<六道巡り『平家物語』灌頂の巻「六道の沙汰」>
#「六道」
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天
輪廻転生は、六道を生まれ変わることを言う。
『義経記』にみる「六道」
義経が奥州平泉にて自害を決意し法華経を読誦していたが、いよいよ藤原泰衡の軍勢が攻め上ってきた。
弁慶「戦いは最後の段階に入りました。味方は揃って討ち死にし、弁慶と片岡だけが残っています。」
義経「法華経の八巻目を読んでいるが、はてどうしたものか?」
弁慶「落ち着いてお読みくだされ。弁慶が矢を防ぎましょう。
たとえ死んでも、君(義経)がお経を読んでいる間は守護してみせます」
弁慶の詠んだ歌:六道の道の巷に君待ちて弥陀ミダの浄土へすぐに参らん
この後、無数の矢を射られても尚立ちつくしていたので、後年「弁慶の仁王立ち」と称せられた。

補説
(1)六道の観念は、『日本霊異記』に初出。
(2)乱の戦没者の慰霊法会として「六道」は重要な意味を持つか?
 平将門と藤原純友の乱の鎮圧後、天慶十年947、朝廷は乱の戦没者の慰霊大法会を比叡山延暦寺で行った。
そこでは、「十方に遊行し衆生を導く観音の誓いは自在である」と称え、
六体の観音像を描き、官軍賊軍を問わず六道に迷う戦没者の霊を等しく浄土に導くように祈った。
非業の最期をとげた戦没者の怨霊の祟りへの恐怖による、死霊鎮送の法会。
 (see:『観音・地蔵・不動』速見侑 講談社現代新書)
十世紀後半に編纂された『往生要集』によって一般化。
中世初期における戦乱の時代に六道思想は民衆の中に浸透し、
近世にはいると盛んに六地蔵が造られるようになる。
『平家物語』『方丈記』などは、六道を意識した編集になっている。
肥前佐賀の両平野で見かける「肥前型六地蔵」と筑後の六地蔵(筑後独特)とは形態が異なる。
「大犬塚の六地蔵」は、蓮華座の上に長い六角柱を建て、方形の笠最上に宝珠を頂く姿。
現存する六地蔵は、江戸時代に作製されたものが多い?
・大犬塚の六地蔵
・十連寺六地蔵
・蓮池六地蔵(『三瀦町史』P.500)

#「六地蔵」
「六道能化ロクドウノウケ」とも称される。
六道を彷徨う衆生を普く救済すると信じられた。
11世紀には、六道のそれぞれに地蔵がいて衆生を救うという六地蔵信仰が成立。
鎌倉時代以降には、賽の神()や道祖神とも結びつき、辻や墓地の入り口に六体の地蔵が置かれた。
そうした辻は、死者が六道に分かれ行く場所と考えられ、「六道の辻」「六道の巷チマタ」と呼ばれた。
それぞれの地蔵には以下の六道が対応している。(『覚禅抄』による)
大定智悲(地獄)・大徳清浄(餓鬼)・大光明(畜生)・清浄無垢(修羅)・大清浄(人)・大堅固(天界)。
#「六観音」
六道を輪廻する衆生を救うために六体集成された観音像。
聖観音(地獄道)・千手観音(餓鬼道)・馬頭観音(畜生道)
十一面観音(阿修羅道)・准胝観音ジュンデイカンノン(人道にんどう)・如意輪観音ニョイリン(天)。


[資料2]平家落人の祈り(神に対する祈り)
・注目点:安徳天皇は、「伊勢大神宮」に祈り入水。
     六騎に伊勢大神宮ゆかりの「大神宮」がある(SEE:資料3)。
どのような戦いであったか?
『平家物語』先帝身投(重要なところのみ、原文)
 源氏の軍兵どもが平家の船に乗り移り、もはや船団は木の葉を散らすように乱れてしまった。
 新中納言平知盛は、「世の中は、もはやこれまでと知りました。
見苦しいものなどは、すべて海の中にお投げ入れ下され」と叫び、自ら塵を拾い船の掃除をするのであった。
女房たちは、
「戦いはどうなるのですか?」
と口々に尋ねる。新中納言は、
「珍しい東男をご覧になることができましょう」
と言って、カラカラと笑った。
二位殿(二位の尼。時子)は、この有様を見て覚悟を決め、
濃いねずみ色の二枚重ねをかぶり、練絹の袴のももだちを高く取って、
神璽(曲玉)を脇にはさみ、宝剣を腰に差し、安徳天皇を抱き
(注:『吾妻鏡』では、天皇を抱いたのは二位の尼)
「我が身は女であっても、敵の手にはかからない。
これから、天皇のお供に参るのだ。天皇に対し志を捧げるつもりのある人々は、急いで後に続きなさい」
と言って、船端に出られた。
安徳天皇は、御歳八歳になられていたが、
<御としの程よりはるかにねびさせたまひて(大人びていらっしゃり)、
御かたちうつくしくあたりも照り輝くばかりなり。
御オンぐし黒うゆらゆらとして、御背中過ぎさせたまひけり。>
天皇は突然のことで驚き、
<「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と仰せければ、
いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさへて申されけるは、
「君はいまだしろしめさぶらはずや(まだご存じないでしょうね)。
先世の十善戒行の御力によッて、いま万乗の主と生まれさせ給へども、
悪縁にひかれて、御運すでに尽きさせ給ひぬ。
まづ、東にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひて、
其後西方浄土の来迎にあづからむとおぼしめし、西にむかはせ給ひて御念仏さぶらふべし。
この国は粟散辺土ゾクサンヘンド(辺境の地にある粟粒のように小さな国)
とて心憂き境にさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処トコロへ具し参らせざぶらふぞ」
と泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色(萌黄色の黄味がかった色)の御衣ギョイに
びんづら(角髪:髪を左右に分け、それぞれ耳の前、目と眉の中間あたりで結う結い方)
結はせ給ひて御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、
まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向かはせ給ひて、
御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉ッて、
千尋チイロ(一尋ヒロは、両手を左右に広げた長さ。約1.5m)の底へぞ入り給う。
悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御姿を散らし、
なさけなきかな、分段の荒き波(六道を輪廻する人間の生死の荒い波)、玉体を沈め奉る。
殿テンをば長生チョウセイと名づけてながきすみかとと定め、
門をば不老と号して老オイせぬとざし(門)とときたれど(長生殿・不老門は中国の名)も、
いまだ十歳のうちにして、底の水屑ミクズとならせ給ふ。
十善帝位の御果報申すもなかなかおろかなり。
雲上の龍くだッて海底の魚ウヲとなり給ふ。
大梵高台の閣の上(大梵天王の住む高台の上)、釈(帝釈天)提シャクダイ喜見の宮の内(喜見城)、
いにしへは槐門クワイモン(大臣)棘路キョクロ(公卿)の間に九族(平家一族)をなびかし、
今は船のうちに浪の下に、御命を一時イッシにほろぼし給ふこそ悲しけれ。
参考:吾妻鏡第四文治元年1185三月二十四日条
(筑前の武将山鹿秀遠が大将軍となり源氏と戦ったことが記されている)
二十四日。長門国赤間の関壇ノ浦の海上に於いて、
源平相対し各々三町(町は、60間。1町は、約109m)を隔てて舟船を艚ぎ向かう。
平家五百余艘を三手に分け、山峨兵藤次秀遠並びに松浦党等を大将軍と為し源氏の将帥と挑戦す。
午の剋に及びて平氏ついに敗退す。二品禅尼宝剣を持ち、
按察局先帝(春秋8歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。
建礼門院、入水したまふの処、渡辺党源五馬允熊手を以て之を取り奉る。按察局同じく存命す。
但し先帝はついに浮かばしめ給はず。

注:吾妻鏡 鎌倉時代に成立した歴史書。著者未詳。
鎌倉時代前期を知る上で最も重要な書。
治承四年1180の頼朝挙兵から、文永三年1266六代将軍宗尊親王が帰京するまでの間、
鎌倉幕府の歴史を和風漢文体によって綴った書。
編年体。
資料として、『平家物語』『源平盛衰記』『金塊和歌集』などの文学作品や、
藤原兼実『玉葉』藤原定家『名月記』などの貴族日記、
さらに寺院・寺社や武士の家に伝わった古文書などを使用している。
国史大系「吾妻鏡」、岩波文庫「吾妻鏡」、訓読「吾妻鏡」などが刊行されている。
ちなみに、戦国時代の武将たちも吾妻鏡を重要視し、
徳川家康は、北条本を編纂し慶長十年1605に刊行。島津家にも伝本がある。

現代語訳
(1185年2月19日源義経が屋島の平家軍を急襲。平家は海に逃れる。)
 1185年3月24日山口県赤間のいわゆる壇ノ浦で、
源氏と平家がそれぞれ330mほど隔てて舟を並べた。
平家は、船五百艘を三手に分け、山鹿の秀遠や松浦党を大将軍として、源氏に戦いを挑んだ。
午前十二時ころになって、平氏が敗退した。
清盛の妻二位の尼は天皇の印である剣を持ち、按擦局がまだ八歳の安徳天皇を抱き、
「海の下にも都がございますよ」
と慰め、海に身を投じた。
安徳天皇の母、建礼門院も海に飛び込んだが、
渡辺党の源五が熊手でからめ取り船に引き上げた。
按擦局も死にきれなかった。
しかし、安徳天皇と二位の尼は、ついに浮かんでは来なかった。

補説:<安徳天皇は、本当に死んだ?>
『福岡県の歴史』川添昭二監修 光文館平成2年8月  P.192
『吾妻鏡』は、「先帝はついに浮かばしめたまわず」と記すのみ。
九条兼実の日記『玉葉』は、「後事分明ならず」とあるのみ。
実際に安徳天皇の遺骸を確認したわけではないため、
安徳天皇が落ちのびたという伝説が各地に残ることとなった。
(真相は不明)
安徳天皇は入水後に龍神に生まれ変わったという説話も生じた。
龍神や水神は、琵琶法師や盲僧の守護神。
彼らは、平家に関する物語を琵琶に合わせて全国を語り歩いた。
平家の武将平景清は、源頼朝をつけ狙い失敗し捕縛されるが、
許されると自ら目を傷つけ盲人となったという言い伝えから、
盲僧たちは景清伝説も持ち歩き、
各地に眼病を癒す神として生目八幡イクメハチマンが建立された。
平知盛らとともに英彦山に逃れた安徳天皇は、
英彦山山伏梅本坊の活躍で宗像郡鐘崎にひそみ、
ここから対馬に渡り対馬の宗家となった。
鐘崎の海女は、安徳天皇に仕えた女官の子孫である。
早鞆ハヤトモの瀬戸(壇ノ浦合戦の場所)に沈んだ平家の武将たちは、
平家蟹になった。

壇ノ浦合戦概要
平家軍は、長門の彦島に投錨。平家軍の退路を断つ形で、
源範頼が、周防・長門・豊後を制圧。義経・梶原景時は、
平家を討つための勢力を確保するために一ケ月を要した。
勢力:
源氏 源義経が総大将。
 摂津を発った時は、百数十艘。
 伊予の河野水軍(河野通信ミチノブ)三十艘・摂津の渡辺水軍を補強。
熊野湛増の水軍二百艘。三月二十一日に周防国在庁官人船所五郎正利の兵船数十艘。
総勢、八百余艘。
壇ノ浦奥津オイツ、下関満珠島付近?
平家 平知盛が総大将。
 第一陣は、山鹿秀遠(遠賀郡芦屋町山鹿字船ケ浦に城を持つ)
 第二陣は、松浦水軍の軍船。
 第三陣は、平家一門。
 総勢、五百余艘。
 午前中は、平家側から源氏側に潮が流れるため、平家が有利に展開という説もあるが、
 現在では否定的な意見が多い。
 そもそも、義経は平家の武将能登守教経に追い回され、
 船から船へと飛び移るいわゆる「八艘飛び」をして逃げ回るほど、
 平家は海戦に強い集団であった。
 では、なぜ、平家が敗退したか?
 平家軍は、壇ノ浦合戦で、多くの「唐船」(大陸との貿易に耐える大型船)を出している。
 これら「唐船」に雑兵を乗せ指揮官や精鋭部隊を三挺櫓サンチョウロの兵舟ヒョウセンに配し
 源氏軍を撃破するする作戦であったが、
 阿波国の豪族民部大夫成良シゲヨシが源氏側に寝返ったために、形成は逆転した。
 安徳天皇や女官たちを守りながらの戦いそのものが不利な上に、
 源氏軍は首脳部の乗った小舟を集中的に襲いかかり、
 さらに船の漕ぎ手や舵取りを狙ったため、平家軍はひとたまりもなく敗北した。
 この戦いは、武士でありながら天皇の外戚として宮中に進出し、
 荘園を営み、急速に貴族化していった平家と、
 あくまでも武装集団として自己規定をしていった源氏との違いが明確に現れているとも言い得る。
 (<戦闘に美意識を持ち込んだ平家と、あくまでも勝つことに拘った源氏>
 という構図を描くことが可能であれば、
 第二次世界大戦における日本とアメリカの戦争観の相違にまで敷衍できる?)
 この海戦で、神鏡・神爾(神爾、つまり勾玉は、海中から引き上げられた)は無事に奉還されたが、
 剣は失われた(二位の尼が抱いて入水)?
 源範頼は、その後、九州に残って平家残党の掃討と、平家旧領の処分にあたった。
 義経は、神器と平家の捕虜を伴って上京。その後、義経と頼朝は不和になる。

参考  --滅びの美学--
その後の義経1159-1189(see:「義経記」)
義経物語は、日本の英雄の原型。
小さな美男子。敵は大きく力も強く大勢。そのような不利な状況下にあって、奇跡的な大勝利をおさめる。
しかし、自らも滅びていかなくてはならない。
このような物語の構造は、日本の精神史に大きな影響を与えた。
(第二次世界大戦末期の「大和出撃」も、その一例ではなかったか?)
・『巨人の星』
・『あしたのジョー』
・『ドカベン』の里中クン。
・『宇宙戦艦ヤマト』
義経年譜
 1185・4・21 梶原景時、義経を讒訴。
   4・29 頼朝、西国の武士に義経に従わないよう命ずる。
   5.1   建礼門院出家
   5・24 頼朝、義経の鎌倉入りを許さず。腰越状を書く。
   6・9  義経帰京。頼朝、義経の所領24ケ所を没収。
   9・23 平時忠能登に流される。
      平時実(時忠の長子)は、義経の参謀格として活躍。
      周防に配流と決まっていたが、都にとどまり続けた。
      義経が大物浦(大物浜ダイモツノハマ)から逃亡する際にも同行し、
      突風のため吹き戻され都に潜伏しているところを捕らえられ、
      上総国に配流された。
      源義経の本妻は、時忠の娘。
      時忠の娘は、建礼門院内侍・女房もいる。
      義経は、平家の残党狩に熱心ではなかった。
   9月末 建礼門院、大原に隠棲。
   11・6 頼朝、義経と行家追討の院宣を得る。
           義経一行、大物浦より出航。暴雨風のため、漂流。離散して吉野に潜伏。
   11・7 義経、解官。
     11・17 義経、山伏姿となって逐電。静と別れる。静は、都に向かうが、
      供の者たちは金品を奪って置き去りにする。静、吉野で捕らえられる。
      11・29 頼朝、義経の追捕を名目として、諸国に守護地頭を設置。
 1186・3・1 静、母磯禅師と共に鎌倉へ入る。
      義経、比叡山に潜伏。
   閏7・29 静、男子を出生。
       頼朝は、安達新三郎に命じて、この子を由比ヶ浜に棄てさせる。
       静は子供を衣にまとって抱き伏し泣き叫んだが、磯禅師は頼朝を
       恐れて子供を使者に渡した。
      9・16 静、磯禅師と共に鎌倉を発つ。以降の消息は、不明。
 1187・2・10 義経、山伏に姿を変えて奥州に下る。
 1187・9  この頃、奥州平泉に到着?
 1189・4・30 藤原泰衡、衣川高館を攻める。義経、北の方や子供たちと共に自害。
    6・13 義経の首が鎌倉に届く。
      神奈川県藤沢市藤沢2丁目白旗神社は、義経の首を埋めた地?
      祭神は、義経。
   9・18 頼朝、泰衡35を殺し、奥州藤原氏滅亡。
「義経記」による義経自害状況の梗概
覚悟を決めた義経は、鞍馬寺時代から六寸五分(3*6+1.5=20)の守り刀を、
腹に突き立て三方へ掻き破り腸ハラワタをつかみだした。
そして、血に濡れた刀を膝の下に押し隠し、衣服をはおって脇息にもたれていた。
それから、北の方を呼び出し逃げ落ちるようにと告げたが、
逆に義経の手にかかって死にたいと訴える。既に腹を切っている義経は、
兼房に妻を殺すように命ずるが、兼房は
「どうやって、どこに刀を突き立てていいかわかりません」
と泣き崩れた。
兼房は、北の方の父から世話をするように頼まれ、夜は妻に世話をさせ、
昼間は自分膝に抱き上げて育ててきたのであった。
しかし、敵が近づき、ついに兼房は腰の刀を抜きはなって、
ついに左の肩を押さえ、右の脇の下から刀を突き立てて左の脇へとえぐったので、
すぐに息絶えた。兼房は、遺体に衣を掛けてから義経の傍らに並べて寝かせた。
五歳になる若君も、兼房の手によって殺され義経の衣の下に入れられた。
生後七日の姫君も刺し殺し、北の方の衣の下に入れた。
すべてが終わった。
義経はまだ息が残っていて、「北の方はどうした?」と尋ねるた。
兼房「もう御自害されて、おそばにおります」
手探りで子供の手をとり、「これは、誰か?」
兼房「若君でございます」
義経は手を伸ばして妻の手を握り、
「早く屋敷に火をかけろ」
と命じ、息を引き取った。
その日の大将である長崎太郎は、兼房によって斬り殺された。
弟の次郎は、兼房に抱きかかえられて火炎の中に飛び込み死んだ。
鎌倉幕府の意を汲んで義経を討った泰衡は、結局頼朝の手によって滅ぼされた。
さらに、頼朝の家系も、北条氏に取って代わられた。
諸行無常の理によって、勝者敗者は、ともに川の流れの中に飲み込まれていく。
義経が妻子共々自害したのは、1189年31歳のことである。
壇ノ浦の勝者である源義経も、それから4年後には妻子もろとも非業な死をとげる運命にあった。


TOP[nakaiHP] に戻る

Tommorow will be fine!

©2004 office NAKAI.All Rights Reserved.